くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『探偵が推理を殺す: 多元化する社会と本格ミステリ』小田 牧央/『法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術』法月綸太郎

 本格定義論争、特にX論争について思ったのは「どうでもいい」だった。前提として謎の難易度についてはかなり興味がない。元々推理小説を読んで推理などしたことないし(必然的に推理してしまって真相に至ったということはあっても)、故に少なくとも自分にとって謎の堅牢さは読書を駆動しない。

 二階堂黎人の称揚する「論理的な推理によって誰もが客観的に真実へ到達しうる作品」をエレガンスに感じる自分もいるが、そこへの愛着も薄い。強いて言えば巽昌章の「探偵役が一個人として真相を悟るに至った洞察や想像力まで含めた広範な知的営み全般」を本格とするスタンスに自分は近い。しかし、それは自分にとって「ミステリ」の定義であって「本格」の定義ではない気がする。例えばレムの『枯草熱』や『捜査』を優れた「ミステリ」であると自分は評価する。上記の巽的なスタンスに極めて合致するからだ。だがこれらは「ミステリ」であって「本格」ではない、という肌感覚がある。だから本当は二階堂的な「本格」観の方が自分は近いのかもしれないが、本当に何が「本格」であろうとどうでもいい。言い換えれば、「本格」であることを特に評価軸に置いていない。自分は推理を愛していない。それでいながらある程度「ミステリ」を読んでいたのはなぜだろうか?いや、何を読んでいたのか?

 自分の問題意識は、「ミステリ」も「本格」も思想を持ちうるはずなのに、「どうでもいい」と投げ出しても何も悩みがないことだ。問題意識を内面化できない一方で、「ミステリ」や「本格」の問題意識と向き合おうとする作品や批評を面白がる(例えばこの本のように)。そこの自己矛盾というか否認のシステムをいまいち把握できていないことが現在「ミステリ」を読む上でネックになっている。

 本書でなるほど、と思ったのは「本格ミステリ」を一元的な価値観(本質)があるのではなく、ときに相矛盾するような概念が混在している、と提起したことだ。小説なんだから当たり前ではあるし、「ミステリ」を「小説」から特権化できないことに違和を覚えていたから、二項対立ではない決定論的態度と不可知論的態度が混在したものとしたのは素直に飲み込むことができた。

 だからこそ、筆者が「本格ミステリ」の自明の価値観であろうと提起し、反転させようとした問題が、言われるまでもないことだと感じた。特殊設定ミステリにしても本格とも無縁ではない、と言及する時点で、本格/特殊設定(変格?)のグラデーションを前提としていることが伺えた。そこを理解できない。故に、本格ミステリとは現実/幻想/真実の境界はどこにあるのか批評する文学だ、とまとめようとした筆者の言葉は祈りや信仰告白のように感じて、尊く好ましく感じる。

 「本格ミステリ」を面白がるのは自分が異教徒だからなのかもしれない。キリスト教は神の存在を前提にして論理を組み立て、神の存在を証明して見せたりするけど、その営みを非キリスト教徒である自分が面白がるのと同じかもしれない。誤った前提(といえば語弊があるけど自分が内面化できない価値観という意味で)から正確な論理を積み重ねた体系は正確に駆動し、機能する。その意味で言えば「本格ミステリ」は間違っているし理解できない、故に自分は面白いのだと思う。

 神学論争の最たる例が後期クイーン問題だろう。法月綸太郎は20代の半ばまでは「読者の間でミステリーのスタンダードという幻想が共有されていた」と述懐するが、それはミステリー史というより法月本人の問題意識の変移ではないかと感じた。

 「初期クイーン論」で意外だったのは、野家が指摘した「『ゲーデル問題』が過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし」ていることに極めて意識的だったことだ。法月はその上記の「あやうさ」も含めてクイーンに似ていると先に述べる。後に後期クイーン問題が「ゲーデル問題」の「あやうい」運用の代名詞として扱われることを思うと皮肉かもしれない。法月がしようとしたことは柄谷がゲーデルを使って考えたこととクイーンがミステリを使って考えたことを比較することだ。

 「形式化」の定義について孫引きする。

 「形式主義は、諸学問・芸術において異なった意味をもっており、またときには異なる名称でよばれている。このことはわれわれの認識を混乱させたり意思疎通を妨げているが、それをむりに統一するのは不可能であり且つ不必要である。しかし、誰にも明瞭なことは、西洋において十九世紀後半から、とりわけ二十世紀前半において顕在化しはじめた文学や諸芸術の変化―たとえば抽象絵画や十二音階の音楽―が、パラレルで相互に連関しあっていることであり、のみならず、物理学・数学・論理学などの変化がそれらと基本的に照応しているということである。このような変化のパラレリズムが示すものを『形式化』とよぶとすれば、さしあたって、その特性は次のようなものであるといってよい。第一に、それは、いわゆる自然・現実・経験・指示対象から乖離することによって、人工的・自律的な世界を構築しようとすることであり、第二に、指示対象・意味(内容)・文脈をカッコにいれて、それ自体はイミのない項(形式)の関係(あるいは差異)と一定の規則をみようとすることである。各領域でどんな手続き(現象学的還元はその一つである)や、のちにのべるようなレトリカルな"逆転"がなされているとしても、それらは類似するものであって、そのどれかにプライオリティり与える根拠はない。それぞれ無関係に、むしろ互いに盲目的であるままに生じてきたこの変化を『形式化』とよぶことは、それらを"全体"として展望したり、"共通の本質"を取り出すことを意味しない。それはただ、各領域のなかで特権化されたものを非特権化するためにすぎない。」

 ヴァン・ダインは実作において成功したとは言えないが、「本格推理小説」を自己完結的なゲーム空間、ひとつの公理系として提供することを、試みた。しかし、ヴァン・ダインは「犯人―探偵」/「作者―読者」という二つのレベルの区別を前提としており、それは「形式化」の意味することから破られてしかるべきものだった。

 「国名シリーズ」においては一人称の語り手を持たないが、〈読者への挑戦〉においてのみ私=作者の一人称で語りかける。これは「作者」の恣意性=メタレベルの下降を禁止することで閉じた形式体系が成立し、『アクロイド殺し』的な自己言及的なパラドクスを封じていると換言できる。

 笠井潔は探偵小説は近代小説に擬態した形態であるとし、作者によるストーリーの先行性を読者に提供されるプロットの優位性という方向に逆転させたものと論じる。〈読者への挑戦〉はその逆転の極点と言える。

 超数学がメンバーとしての形式体系に入り込む自己言及性のメタファーをクイーンにおいては「ギリシャ棺の謎」において見出す。すなわち「手がかり―推理」として作中に示される論理が暗黙に前提しているフィクション性を、「偽の手がかり―偽の解決」というオブジェクトレベルにずれ込ませることを意味する。

 確かに「形式化」の極限において体系が自己言及的なパラドクスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を「ゲーデル問題」とし、ミステリに引用してみせる手付きはアクロバティックで面白い。しかしやはり重要なのはミステリがゲーデル問題を利用しうる体系を持ちうるか、ということではなく、「し得ないかもしれない」という「あやうさ」を孕んだまま進行することではないか。九尾の猫じゃないけど、愛=直観主義を受け入れた上でゲーデルを「誤用」してみせること。小説という死体の山からミステリをミステリたらしめるのはやはり愛にほかならないと感じた。

 『うみねこのなく頃に』や『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい』のような地の文=オブジェクトが消失していくミステリが結果的に愛の話になるのも当然かもしれない。ミステリを「ミステリ」にするのは愛でしかないからじゃないか。自分はミステリというゲーム空間を愛し、信仰することができない、故に「ミステリ」を愛しているのかもしれない。これこそがまさに「ミステリ」的な自己言及的パラドクスだ。その自己言及的なパラドクスを解決する手段として、自分は「どうでもいい」と否認してみせているのかもしれない。