くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『八月の光』フォークナー/『+チック姉さん』(22)栗井茶

 フォークナーをこの一週間くらいちまちまと読んでいたのは、『八月の光』がつまらなくて読み進められなかったからではない。むしろ文体にはとても惹かれていて「小説」を読む面白さとはこういうことだと思ったくらいだった。では、なぜ読む速度が遅かったのかと上記の「小説」観はどこか繋がっているように思えた。

 少なくとも『八月の光』に感じていた面白さはストーリーテリングではない。キャラクターの境遇を面白がるそういう読みもしていたけど、自分が面白いと感じたのはそのようなキャラクターが立ち上ってくる以前からだった。だから惹かれたのは文体だと思うわけだけど、フォークナーの文体の精緻な分析は難しい。

 辞書的に意識の流れの系譜に連なる(丁寧に語りが噴出してくる箇所は強調されていた、わかりやすくてありがたい)のは理解できる。自分には模糊とした部分と明晰な部分の乖離が激しい文体のように思えた。そこが魅力なのだろうか?

 例えば曖昧模糊さと明晰さの乖離が激しい作家ではカフカなんかが思い浮かぶ。カフカの文体は明晰に出来事をビジュアル的に立ち上らせるが、その意味を宙ぶらりんにする。フォークナーはカフカとは異なる。確かに登場人物の行動、それに心理さえ明晰に描写してみせる。しかし、意味は宙ぶらりんになるのではなく、過剰な暗喩と無意味の間に漂い続けているのではないかと感じた。自分が惹かれたのはその中間であること、どちらでもないことに対する文体の意識についてではないだろうか。

 ストーリーにあまり興味はないと言ったが、解説において、ジョーのアイデンティティーの不安は「近代化」によって虚無化されてしまい、別の苦悩を産む、と読まれていたが、これはまさにフォークナーの文体の本質ではないかと思えた。

 〈ふるさと〉=アイデンティティーを蝕む「近代化」の力によってフォークナーの明晰な文章も観察眼もその明晰さ、観察眼故に虚無へ向かおうとしていたのではないか。少なくとも何かの揺れ動きを覚えたのが魅力だったのだと思う。先ほど曖昧模糊な文体でもある、と述べたがそれは正確ではなかった。明晰に虚無へ向かう文章を書こうとすれば逆説的にほのめかしやメタファーを意識せざるを得ない。逃れられない。その動的な虚無へのうねりを記述しようとしたからこそ意識の流れ的な技法を要請したのかもしれない。

 メタファーで言えばあとがきの指摘にあるようにリーナの赤ん坊とジョーとキリストの重ね合わせがある。その上でリーナは「あたしごっちゃになりたくないんです」と主張する。訳者はこれを小説=幻想世界を作り上げようとする作者へのメタツッコミだと言うが、自分にはメタではなくベタなのではないかと思えた。フォークナーの文体の問題意識は「あたしごっちゃになりたくないんです」というのが本質なのではないか、つまり、幻想、メタファー、アイデンティティーが「ごっちゃに」なりうる可能性や背景を認識し、把握した上でそれを拒みたい、拒まざるを得ないのではないか。『八月の光』が書かれたときはすでに20年代ではなかったように、「近代化」はされてしまった地点からしか振り替えれない。明晰に分析するほど、明晰なアイデンティティークライシスには戻れない。すべての意味が接続される世界は〈ふるさと〉でありそれはもはや失われている。

 「小説」が近代の産物であり、『八月の光』が「小説」だと思ったのはきっとその意味と無意味の葛藤を感じ取ったからではないかと思うわけだ。『ドン・キホーテ』から「小説」を始めれば、上記の訳者の指摘は正しい故に少し足りない。なぜならばその指摘する「メタ」性から小説は始まるからではないかと思うからだ。虚無によって駆動し、どこまで行っても「メタ」言説がつきまとう世界を明晰に切り取る意志を持つことがすなわち「文体」なのではないだろうか。自分にはフォークナーはその意志が明晰に揺らぎ続けているように見えてきっと好ましく思った。放浪する意志が書くものはだからこそ「近代人」の姿を写し取り、今に呼応しているのではないかと思えた。

 架空の都市の群像劇という点でフォークナーと『+チック姉さん』は響き合う、というのは苦しいっすか?フォークナーは書き方に面白みを感じたが『+チック姉さん』に感じる面白さは群像劇に求めるものだ。誰かと誰かの意志と人生が交錯すること。『+チック姉さん』はよく強さ議論的なノリで語られることはあるけれどそれは正しい。強さ議論も群像劇も誰かと誰かの掛け合わせによってどのような反応が起きるか、という面白みだからだ。

 怪異も変質者もTHE市の外部ではなく内側の存在だ。怪異にも変質者にも作品内の論理で立ち向かう、あるいは敗北する方法が示されている。怪異/変質者/一般人にも明確な区別はない。あくまで相性(これもバトルマンガ的だ)とグラデーションがあるだけだ。こういう区別が無化される構造自体、近代人の苦悩なんですかね?

 少なくとも『+チック姉さん』の笑いは怪異や変質者が我々の論理の外側=不条理だからではない。少なくとも(一見して)そのように不条理な存在が論理に回収されるところにあると思う。怪異も変質者もそのキャラクター個人のロジックとして他のキャラクターたちと並列化される。並列化された上でのパワーバランスのシーソーゲームが面白みになっている。

 そのバトルは暴力だったり暴言だったり色々だが、そのキャラクターの論理のぶつけ合いが楽しい。だからこそこのマンガは大量のキャラクターを必要としたし、その掛け合わせも増え続けているんだと思う。ノッポと辰っちゃんと、マンホール学歴男と宇宙人が絡むとか思わなかったし。