くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/17

藤井さんへ

 

 目[mé]の展示についてのnoteを読みましたが、たいへん興味深かったです。このように、枠組みがぐらぐらする体験に(読んだだけですが)、素朴に感動してしまいます。思うに、自分が「他者」と呼ぶのは、単にぐらぐらさせてくれるもの、という程度の意味だと思います。藤井さんは、「対峙」しているが回路が開ききっていない、と表現されていて、自分の中の確信を文章にすることの比重がかなり重いとお見受けしました。故郷喪失もやはり、自分の確信についての話ですよね。自分もやはり、真実を書きたいと思っているのですが、「確信」は違うのかもしれないと思いました。何かその「確信」を突き崩すものを探している気がします。読者にしても、「正しく読んでくれる読者」はとても嬉しいものですが、同時に自分は、「決定的に馬鹿な読者」を求めている。例えば、ナボコフは「正しく読んでくれる読者」以外相手にしていない感じがあります。ナボコフが全然わからない自分からすると(本当に手つきがわからない)、愚かさを責められている気持ちになります。「作者」が提示した空間内で、創造的でクリティカルに読むことはすごく難しいと、ナボコフを読むと痛感させられます。

 遡って、自分が価値を重く置く、「ぐらぐらすること」はすなわち、「『私』と違う価値が提示されること」だと思いました。価値が創発されたり、止揚されるのではなく、ただ、露骨で無骨に提示されること自体に、芸術というものの価値を感じます。だからその意味で、自分の小説は、「自分の価値を提示すること」として機能してしまい、結果として他者を指向しているかもしれません。

 泉信之の「漫画をめぐる冒険」で、「スクールランブル」を論じていて、それは自分の「スクールランブル」の価値がぐらぐらする快楽がありました。「スクールランブル」は他愛のないラブコメなのですが、泉は、コマごとに微細な絵柄の変化があり、それが様々なキャラ固有の心象の反映であると指摘しました。つまり、「スクールランブル」が、気持ちのすれ違いを描くラブコメというものを、多数の価値判断を同じページ内に同居させ、「提示」する方法を発見したものであるゆえに優れていると。その指摘を見てから、「スクールランブル」が豊かなものであるように受け入れられました(もともと小気味よいギャグで楽しいマンガなのですが)。これも、価値が創発でも止揚でもなく、ただ提示される感動があると思い出したのです。

 しかし、その「単なる列挙」は、露悪的な相対主義に陥る可能性もあるかもしれません。「どうでもいい」ことは祝福かもしれませんが、全て「どうでもいい」というニヒリズムかもしれない。例えば、個人を中傷するようなネットミームに、どうでもよく感じている自分がいます。ニコニコなどで動画を見ているとき、淫夢クッキー☆ネタが用いられても、受け流しています。自分では「語録」に抵触する言及は絶対的に避けようとしている(逆説的に把握していることを告白しますが)のですが、動画やコメントを受け入れてしまっている。これは糾弾するつもりではないのですが、以前、藤井さんが廃墟に描かれたICGの落書きを「東方のアリス」だと誤認している人をさらすようなツイートをいいねしているのを見かけました。藤井さんが、クッキー☆のような悪趣味なコンテンツを面白がるとは、偏見ながらあまり思えなかったので、どのようなスタンスなのかお聞きしてもいいでしょうか?

 自分はやはり、淫夢的な悪趣味さを、黙認してしまう加害性を認めて、それを自認しているならいいやみたいに投げ出してしまいます。人間関係の煩いにイライラしながら、けっきょくゴシップを面白がっている。ゴシップのストレスにも耐え難くなってきて匿名掲示板のアプリなどを最近削除したのですが……。

 そこに、自己矛盾があります。価値観の異なる他者を求めながら、事実、それと接して、愚かだったり下品だったりすると、シャットアウトしてしまう。あらゆる愚民と向き合うのは物理的にも精神的にも不可能なので、仕方がないと妥協してしまうのも悪とは思いませんが、どうも欺瞞を感じます。

 エンターテイメントというものは、ストーリーやジャンルの文法みたいなルールに一致することを強く求められているので、ゲイジュツと不一致を示す場合が少なくないのはその通りだと思います。自分もSFは好きだと思うのですが、どうも「SF好き」と噛み合わない。これは早川書房の「バズリ方」が気に食わないだけな気もしますが。「SF」を他のジャンルに置き換えても同じで、オタクの身内ノリから疎外される気分は常にあります。それはやはりオタクが、そのジャンルが堅牢であることを願う意志が強いからではないでしょうか。究極、スタニスワフ・レムの「天の声」でSFは終わりで、「枯草熱」でミステリは終わりと主張されても、終わって構わないし、むしろ終わり続けていないジャンルは死んでいると思います。「ぐらぐらさせるもの」は文芸誌の審査員が言う「新しさ」にほとんど一致するかもしれません。

 保坂和志が、ポリシーとして猫をストーリーの小道具や心情のメタファーにしないようにしたのは、極めて正しく感じます。動物倫理とか、小説の方法以前に、世界と関わる態度として。ストーリーがつまらないというのは、全てを因果=自分の認識の内部に回収してしまう点ではないかと思います。だから、動物がただ在り、自分が愛すること以外には何もないとさえ思える。因果や理屈で駆動するのは、「知っている」からすごく気持ちがいい。だけど芸術というものは、その運動とは違うやり方を提示するものだと信じています。マルキ・ド・サドの「新ジュスティーヌ」に以下のセリフがあります。

「自然があたしの手にゆだねてくれた罪悪の凡庸さについて、たぶん、あたしはあなたよりもっと歯がゆい思いをしているわ。あたしたちの犯すあらゆる罪悪によって、傷つけられる者といったら、偶像と人間だけだわ。ところで、自然はちっとも傷つけられていないのよ。そして、あたしが何とかして傷つけてやりたいと思っているのは、この自然なのよ。あたしは自然の意図を妨害し、自然の運行を阻止し、星々の軌道を停止せしめ、空間にただよう天体を覆滅してやりたいわ。そして自然に役立つものを破壊し、自然を害うものを庇護し、自然を怒らせるものを築きあげ、一言でいえば、自然のつくったもののなかで自然を侮辱し、自然の偉大な効果のすべてを中止させてやりたいと思うのよ。でも、それはできない相談だわ。」

 自分が小説で試みたいことはこれかもしれません。サドと同様の方法を用いるという意味ではなく、「自然」に逆らいたい。以前、超越したいと書いたのとおそらく同じ意味です。

 そのために「自然」を観察しなければならないと感じています。これは単に犬を撫でたい気持ちの言い直しかもしれませんが。