くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『隠喩としての建築』柄谷行人

 柄谷行人ゲーデルのメタファーを用いて自己言及について考える。隠喩としての建築とは、混沌とした過剰な生成に対してもはや一切自然に負うことのない秩序や構造を確立することとして提示される。

 F・M・コンフォードはギリシャ思想の世界の見方を制作として見るか生成として見るかに分類する。制作は作品と対応する。超越論的な意味の外化・再現するもの。生成はテクストと対応する。超越論的な意味あるいは構造をたえず超出しあたかも自ら意味を算出するかのようにみえるもの。

 柄谷の、数学が基礎が持たないという主張は過剰にメタファーとして読みすぎとしても、近代の知が、合理主義への安住故に非合理主義が支配するような事態をもたらすことへの意識は正しく思う。西洋思想史において、建築的であることが逆のものを露呈してきたことを提示する。

 この逆説をマラルメにおいても見出す。マラルメが言語の日常的な使用価値をしりぞけ、まったくの関係のみで成り立つ語の構成を試みようとするこの企てが出会うのは偶然性であったこと。ピタゴラス的な美として要請された形式化への志向である、言語から指示対象・意味を排除した自律的な形式としての純粋詩は、形式的な項の関係のみで成り立つ。

 加えて小島信夫についてもすべてを関係項とみなす小説であるとする。最も明確に論理的たらんとする世界の自己破綻としてのオカシサ(不条理=absurdity)は、他方で、そのような理性・論理から排除されるような土俗的な、周縁的な世界、あるいは夢の世界と逆説的につながっている、すべての項が決定不可能なゲーデル的世界であると。

 マラルメが形式化故に「ゲーデル的問題」に直面したのは理解できる。では小島信夫はいかなる「公理」に基づいて「ゲーデル的世界」に至ったのか?それもまた「言語」自体である。われわれは言葉を使用しているが、言葉がわれわれを使用しているのではないかという疑いを生きてしまっている世界。

 自己言及的なシステムにおいては、最終的な超越または外部はありえない、という「ゲーデル的問題」からは自然言語も免れない。

 ここで考えたいのがなぜ法月綸太郎はテクスト自体の「ゲーデル的問題」ではなく、ゲーム空間としてのミステリを仮構して「ゲーデル的問題」を提起したのかだ。

 「ミステリ」に「ゲーデル的問題」を適用するというより、クイーンにおけるミステリと柄谷行人におけるゲーデルを比較する企てであったから、というのは前提ではあるが、それはテクスト自体の「ゲーデル的問題」に直面してしまえば、トリック、特に叙述トリックは成立しないからではないか。

 叙述トリックはテクストが「表面上異なる意味を持つ」故に発生しうる。だがそのようなテクストは形式主義を徹底すれば到達してしまうものである。叙述トリックとはその言語自体の形式主義をあえて保留することでテクストの「真の意味」、あるいは「多義性」に戯れることで起きるのではないだろうか。

 「ゲーデル的問題」を近代という問題すべてに拡張すれば、「ミステリが近代小説に擬態している」という指摘は正しい。近代小説が小島信夫のように、あるいはマラルメの詩のようにテクスト自体の「ゲーデル的問題」についての言及であるなら、ミステリは「作者」=「テクスト」のメタレベルを一つ下降させているのではないか。

 マラルメを題材にしたミステリである「鏡の中は日曜日」において、劇中作=メタレベルの下降した「作者」を登場させたのは必然的に感じる。そして「叙述トリック」を必要としたことも。「鏡の中は日曜日」においては、後期クイーン問題の解決、あるいは転倒として、メタレベルの無限階梯を停止させるために作品内にメタレベルを下降させる必要があったのではないだろうか。

 もしも「鏡の中は日曜日」がマラルメ化するなら、「ぼく」の語りを、より過激にし続けるしかない。例えば小島信夫のように(そういえば殊能将之は美濃牛において小島信夫も引用していた)。

 「本格」論議でとりだされる「フェア」であることとはそのまま「建築への意志」にほかならないと感じた。それは西洋思想を醸成し、近代を用意し、そしてそれ自体を食らうウロボロスである。

 そして、殊能将之が「鏡の中は日曜日」が「アンフェア」であることを認めたのは、この作品が「マラルメ的次元のゲーデル的問題」を「ミステリ的次元のゲーデル的問題」に落とし込んだために起こり得たのではないだろうか。

 本格ミステリとは現実/幻想/真実の境界はどこにあるのか批評する文学だ、と小田が述べたのは正しい。なぜならば「マラルメ的次元のゲーデル的問題」を推し進めた小島信夫の論理はまさに夢そのものだからだ。そこには境界もすべてが無化された世界しか存在せず、「ミステリ」は存在しない。「ミステリ」とはいくら脱構築しようとある種の二項対立を必ず必要とするのかもしれない。だからあえて言えば、ミステリは近代の産物であると同時に近代小説ではない。誰がアクロイドを殺そうが構わない。近代小説において、「アクロイド殺し」のテクストは夢の形式に落とし込まれる(あるいは上昇する)。

 「ミステリ」を殺すのに読者への挑戦は必要なく、ただ小説を書けばいいのかもしれない。