くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/14

https://yo-fujii.parallel.jp/2024/02/13/post-1968/

藤井さんへ

 

 お返事ありがとうございます。お返事を頂いて、第一に決定的な思い違いをしていることに気がつきました。故郷の喪失を自認する、という点です。藤井さんが募集要項等で故郷喪失者であることの自認を重視しているのを知っていながら、理解していなかった。まず、体験として、故郷喪失者である、ということが真実であるわけですね(何を今更ともはやお怒りになるかもしれませんが……)。

 自分はそれを「条件」だと考えて、では「故郷」や「喪失」が何か考えていましたが、それ以前のプリミティブな確信でした。例えば性自認が、自分の言動から帰納法的に自認する以前に、これであると「わかる」ように(当然帰納法的な自認やクエスチョニングもありえましょうが)自らが「故郷喪失者」であり、そうでしかない「私」についての話なのだとようやくたどり着きました。藤井さんが、喪失/分断/虚無の区別に価値を感じないのも頷けました。「故郷喪失者」であることはアイデンティティの一部であり、言語化しえない(する必要もない)と了解しました。

 なぜ自分が喪失の認識について考えていたのか、自問すると、それは逃避ではないかと思いました。自身が故郷喪失者である、という確信を、最初はあったと思います。しかし、「故郷喪失者」であると認めるのは、自己憐憫のようで、惨めに感じたのかもしれません。だから、論をもて遊び、抽象化し、一般化することで、自分の境遇や気持ちが、単なる法則で、ちっぽけなものに過ぎないと慰めるしかなかったのだと思います。例えば占いは人を類型化し、人生を記号操作に費やしますが、それが救いであることもある。方程式を変形するような作業として、自分の思考の流れをシンプルに操作することは、楽で居心地がよかった。これは自分が論理的な人間である、というアピールではなく、むしろ逆で、感情的に身体を機械にしようとしている。

 ですが、言葉以前の「啓示」、「運命」みたいなものを、あまり直観することができません。カガク的に言えば、感情のメタ認知機能が弱いのかもしれない。鬱病の診断を受けたのも、心が苦しく受診したのではなく、不眠だの嘔吐だの身体の異常から推理してメンタルの不調に行き着いたからに過ぎませんでした。これを念頭においた上で、直観した「故郷喪失」を再び見出さなければならないと感じました。

 自身をカテゴライズする安寧を少し許すなら、MBTIにおいて、自分はINTJらしいです。その特性を踏まえてどのように認知機能をよりよく扱えばいいのか調べましたが、「内向的直観」が主機能であるから「複数の事象や現象、概念の共通性や関連性を捉え、一つの象徴的なイメージに集約する」ことに長けているらしい……。要するに最初にお送りしたお手紙と同じことをやるのかもしれません。色々と袋小路な気分になりました。

 直観の感情的な分析が苦手だと割り切れば、楽ですが、やはり自己カウンセリング的に自分の感情を見つめ直さなければならないと思っています。

 というのも、自分が書く小説に最近行き詰まりを感じているからです。意志や意味がおぞましく、そうではない何かを小説という運動の中から掴みたいのですが、直観した言葉で埋め尽くすことしかできず、自己欺瞞を重ねているように思えます。別に小説を職業にしたいとかは思っていない(これも欺瞞かしら)のですが、せっかく書いたものはいいものにしたいし、ついでに評価されたい。それが足枷であるとは言い訳ですが、本当のことを何も書けないと毎回痛感しています。最初に小説を書いたのは彼氏を面白がらせるためでした。それからはせっかくだしネットにあげてみようかな的な雑さで。カモガワ奇想短編グランプリでビギナーズラックで最終選考に残ってしまって、勘違いして公募とか送っていますが、なんともかんともです。しかし、ネットの「ワナビ」(あえて言いますが)の馴れ合いは不愉快だし、けっきょく公募で賞を取ることをひとまずのモチベーションにするしかないのかな、という感じです。やはり自分の小説には他者がいなくてペラペラな感じがするので、何か超越したいと悶々としています。

 全体的に、自我の次元でしか何も考えていなかったのですが、唐突に、「故郷喪失小説」として教科書で魯迅の「故郷」を読んだことを思い出しました。あれは主人公より故郷の変容に主眼があって、何か盲点をつかれた気分です。故郷喪失について、それを自分がどう捉えるかばかり考えていて、外在的な変化について見落としていた気がします(これも何を今更でしょうが)。

 さっき感じた喪失感に、「東京放課後サモナーズ」があります。数年前に引退してしまったソシャゲなのですが、何年も自分が続けられたソシャゲは無二でしたし、もはや高校時代の思い出にもなっていました。彼氏にオススメして、隣でプレイしているのを見ると、アプリを消したときには何も感じていなかった喪失感を覚えました。「故郷喪失というのは、そもそも往還する人々がいて初めて浮き上がってくる」というのを早速実感したわけです。内容は能力バトル伝奇ジュブナイルゲイポルノって感じなのですが、主人公の設定が、多数の異世界で追放された者たちのキメラであり、「役割」として故郷を追放されることを決定されている、という点で、故郷喪失ものでもあるのかもしれません。追放者=喪失者=マイノリティ(特にゲイ)の生存戦略を探るメインストーリーはなかなかよくできているな、とお気に入りでした。イベントストーリーではガチムチデブケモが媚態を晒して食傷気味でしたが。ちょっと脱線しましたが、ライトノベルでよく見る「追放もの」は「故郷喪失」に入るのでしょうか。これも素朴な定義論に立ち返ってしまうかもしれないですが、やはり「喪失とは何か」が自分にとっては課題なのかもしれません。事実としての喪失(感)を認めながら、その正体を探る必要がある。ライトノベルは詳しくないのですが、「追放もの」は、立ち去ることが目的であり、「故郷」も「喪失」も抱えていないように見えます。逆説的に、その能天気さが必要なのかもしれない。つまり「故郷喪失」を痛みではなく、オシャレなタトゥー気取りで消費する態度も、また重要ではないかと思えたのです。帰るべき場所に居場所がない、ということをポジティブに考えてもいい気持ちにさせてくれる。難民の「喪失」に思いを寄せ、痛みを分かち合おうとするのも、藤井さんのように、目の前の苦しみに寄り添おうとするのも立派です。しかし、個人的な「故郷喪失」を語るなら、愚かでエゴイストで陽気でもいいのかもしれない。レディコミ的な、毒親と決別してスッキリではなく、「追放もの」の空っぽさが、ときには必要なのかもしれないと思えたのです。実際に馬鹿を演じるのは、それで苦しいでしょうが……。

 真面目に故郷を喪失してしまえば、夏目漱石二葉亭四迷のように、どこにも寄る辺なく、狂うしかないのかもしれないと信じられます。「この世界の片隅に」で、主人公のすずが玉音放送を聞いて太極旗を見、「うちも、知らんまに死にたかったなあ」と「狂えず」、苦しむシーンがあるのですが、あれも、決定的な故郷喪失に他ならないのではないでしょうか。価値観の居場所が崩壊する点で、結びついているように見えます。加えて、すずの「故郷」には原爆が投下される。

 まず、外側の変化と内側の変化を観察しなければならないというのが結びです。故郷’もまた、観察による揺らぎから生じた幻影かもしれない。