くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/13

藤井さんへ

 

 儀礼的な挨拶に見えるかもしれませんが、鳩アンソロジーではお世話になりました。故郷喪失アンソロジーも企画されているとのことで、バイタリティに頭が下がります。

 故郷喪失について考えていたのですが、ディアスポラや災害避難、難民などに目を向けると、自分の喪失感がままごとに感じられます。自分は数年前に鬱病になって以来、だいたいベッドでゴロゴロしているのですが、喪失感を脳内物質の作用による虚無感と半分無意識に混同しているに過ぎないように思えます。実家へも、煩わしいと感じる一方で、大学の学費も、上京先のアパートの家賃も負担して貰っているのが現状です。

 敷衍して「故郷」を捉えても、先日、分断と喪失は異なると言及していた方が居ましたが、虚無と喪失もまた違うのではないかと今更思えました。喪失が、あったものがなくなるということなら、本質的に、存在した上で、存在しない状態にならなければならないのかもしれない。「在る」ということを結び付けられないから、「非存在」であるとするのは、欺瞞かもしれないと我に返りました。

 在るということを考えると、逆説的に、仏教的な意味での「空」を想起しました。そこから考えれば(一切が空なら)、余計に「喪失」などあり得ないわけで……。

 決定的な喪失という点で、黒沢清の「回路」を思い出しました。あの映画が分断や虚無ではなく喪失であると感じるのは、あの映画では人も幽霊もまず、「在る」ことによるのだと思います。それが消えて行く過程が恐怖の肝ではないでしょうか。

 映画というメディアの特徴自体が、全てが絶対的にに「在る」世界を描いてしまうのもある気がします。光学機器による世界の認知はあまりにも存在過剰で、スーザン・ソンタグとかではありませんが、亡霊のように在り続けるように思えてしまいます。コティングリー妖精事件の写真は好きなのですが、あんなものが「リアル」だと我々に思わせるのは、写真というポテンシャルが、存在を過多にするためではないでしょうか。「回路」を再び検討すると、喪失でもあると同時に、「在り続ける」話でもあると思います。それが映画の限界点でもあるし、喪失とは「在るもの」からのパースペクティヴでしかないということなのかもしれません。

 小説というメディアで喪失を書くなら、まず存在しなければならないのですが、それはすごく難しい気がします。「故郷喪失」と聞いて、最初に連想したのが、小島信夫の「美濃」でした。「美濃」に、「いったい岐阜とは何だ! そんなもの、この日本にほんとにあるのか?」という一節があります。「美濃」の話は覚えていない(謙遜とかじゃなく本当に頭から抜け落ちる)のですが、ここがすごく印象に残っていて――というのも柄谷行人殊能将之がこの箇所を引用していたからなのですが――「美濃」は喪失を抱えているのかもしれない、と感じました。「美濃」に限らず、小島信夫がそうなのかもしれない。小島信夫の方法で「私小説」を書くことは、まず「在る」ことの強度を高めるのかもしれず、それが「喪失」を逆説的に浮き上がらせているのでしょうか。小島信夫の晩年の「残光」はほとんどボケ老人の戯言のようなのですが、その言葉によって、強力に私が「在り」、それゆえに私の在り処を「喪失」しているように見える。

 故郷の喪失、あるいは拒絶として、カテジナ・ルースを思い出しました。「機動戦士Vガンダム」に登場するヒロインでラスボス的な人です。カテジナは故郷の街、ウーイッグを空襲で焼け出され、主人公のウッソ・エヴィンレジスタンスに合流するのですが、ウッソのような子どもを戦争に利用するレジスタンスへの不信や、変身願望や自己実現願望(?)から、街を空襲した国の将校に拉致されて以来、その将校の秘書、愛人として振る舞い、物語の後半からモビルスーツに乗って、ウッソと戦うことになります。カテジナは潔癖的な正義感から、特権的に保護されている故郷や、俗物的な父と男を作って出ていった母を嫌悪していました。カテジナは焼け野原になった故郷を見て考え込んだあと、ウーイッグの人々は皆堕落していたから爆撃されてよかったというようなことを言いました。その一方で、レジスタンスの秘密工場があったために、故郷の人々が死んでいったことに、憤りを表明する。ウッソは、憧れの深窓の令嬢である「ウーイッグのカテジナさん」でいることを強要し、悲鳴のようにビームサーベルを振り回すカテジナを簡単に一蹴して、モビルスーツを破壊する。物語の終盤、人の意志を伝達するマシンが登場し、望郷と母性への回帰を押し付け、戦争を終わらせようとするのですが、カテジナだけがその意志を拒絶し、ウッソの仲間たちを殺していく。しかし、カテジナは愛人を殺され、ウッソを殺せず、盲人となって、一人ウーイッグに帰って物語は終わります。カテジナは、「機動戦士Vガンダム」という作品を否定しようとし、敗北した存在に見えます。カテジナは社会の歪さとそれを変えられない自分を憎み、頭でっかちだけど場当たり的に八つ当たりすることしかできず、愛人に依存することもウッソの願望に妥協することも拒絶する。その孤独はやはり、故郷へのコンプレックスから来ていると思うのです。特権的に恵まれた環境を享受していることが正義と一致せず、子どもであることを理由にして、その不正義を甘んじる苛立ち。欺瞞に満ちた世界を変える力を得ようとしているのに誰もが「ウーイッグのお嬢さん」に戻れと強要してくる苛立ち(カテジナは同じ軍の仲間からも疎まれていました)。おそらく、カテジナは自分を故郷喪失者だと自認していたのではないでしょうか。しかし、カテジナはけっきょく故郷に帰らざるを得ない。これはすごく悲しいことに感じます。この悲劇はカテジナだけではなく、「機動戦士Vガンダム」が、皆故郷を失いながら、故郷に帰らざるを得ないというアイロニーに満ちている。逃げ場がどこにもないように感じる。カテジナの愚かさと哀れさは、自分にとって今でも我が事のように感じられます。

 つまるところ、「機動戦士Vガンダム」に限らず、故郷が在るなら故郷は在り続け、喪失の気持ちがあるだけで、絶対的な喪失などあり得ないのかもしれないと思えるのです。故郷が喪失したと自認するほど故郷に囚われるアイロニーを、カテジナ・ルースに思い出しました。その苦しみをケアするためのアンソロジーでもあるのでしょうか? 喪失をコンプレックスと一蹴するつもりはなく、ただカテジナ・ルースのような「喪失者」は多いのではないかと思ったのです。

 藤井さんのパーソナルな事情は存じ上げないのですが、アンソロジーは故郷と向き合う鏡なのか、アジールなのか、それともそれ以外なのか、いずれにしても、何か煩いが和らぐことを祈ります。