くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/15

藤井さんへ

 

 「故郷喪失」が政治とアイデンティティの問題である、というのはその通りだと思います。というより、全ては、政治=社会とアイデンティティ=私の問題に還元できてしまうのかもしれません。だからこそ、そうではないもの=他者(?)を故郷喪失に見出したく思えます。

 自分は高校時代、演劇部で舞台監督をしていたのですが、率直に言って、演技や舞台というものがわかりません。ただ、舞台監督をしていて、舞台というものが極めて政治的=社会的に作られているのは実感しました。当たり前ですが、脚本を選ぶ段階、それ以前の演劇部を組織する段階から政治は始まっている(ここでの政治は意志の調停くらいの意味です)。その後の脚本の読み合わせ、演技プランの組み立て、大道具小道具の作成、音響、照明、全て政治です。個々の演出論には立ち入りませんが、一つの舞台として提示されるものに、上映中は観客、裏方のスタッフすら含めた多数の意志が渦巻いていることは同意頂けるのではないでしょうか。舞台の本質的なところは、視覚芸術である以上に、集団芸術であることにあるのではないでしょうか。

 以前、万有引力という劇団の「迷路と死海」という劇を見ました。見えない演劇をコンセプトにしていて、暗闇のシーンが多かったのですが、それ以上に、普段何を不可視化しているのか暴く演出が面白かった。例えば最初、観客席側に清掃の人がいました。自分含めて誰も気に留めていなかったその人は、いつの間にかゆっく掃除しながら舞台の上へ移動する。その段でも、気にしていない人は多く、上演前のお喋りを続けているひとは少なくなかった。開演時間前の音響が、気づかれないようにフェードアウトしていき、無音になったとき、ようやく皆が、舞台が始まっていることに気がつきました。また、休憩時間中の観客いじりのコーナーがありました。他愛のないお喋りで観客たちはくすくす笑って、くじ引きで観客の一人が舞台に上げられる。しかし、次第に、その観客も、「役者」の一人であるということがわかり、「舞台」の中に回収されてしまいます。完全に「役者」となってしまっても、その事態を把握できない観客もまた少なくなかった(マジのやつ? みたいなどよめきが聞こえた)。ベタなメタフィクション的技法と言われればそれまでですが、露骨に、舞台という制度が観客との政治によって成り立っていることを剥き出すものでした。加えて、当時はコロナ禍真っ只中でしたので、皆マスクをつけており、清掃の方も舞台に上がった観客も、マスクをつけていて、我々と見分けがつかなかった。そこを利用したトリック(?)で、見ているときはゾッとしました。

 一方で小説は書くのも読むのも(基本)一人です。だから、政治というのが作者と読者の間でのみ繰り広げられるように見える。その制度を利用するのがミステリかもしれません。自分の書く小説に他者がいない、と感じてしまうのはそのような政治性が要因ではないでしょうか。

 並木浩一と奥泉光の対談の、「旧約聖書がわかる本」を読んでいます。二人の対談形式で、対話を軸に旧約聖書を読んでいく本です。この本のコンセプトを最初に説明するにあたって、興味深いことが書いてありました。「『対話性』というのは、完結できない世界をお互いに認めること」であり、「対話性こそが歴史叙述に限らず、人間の知的営為の前提であり、同時に目標である」と。そして、ユダヤの神は絶対的な外部の他者であるがゆえに、「対話」、「契約」が成立すると。ありふれた事実ですが、本質だと思いました。他者はもちろん「他者」なのですが、実際に接すると、無関心を装ったり、自我の反射として眼差してしまうことがあります。もちろん全ての他者を「他者」として扱うのは、一人の矮小な自我では不可能に近いでしょうが……。ですが、その上で「他者」と関わらないといけない。

 「新世紀エヴァンゲリオン」では、自問自答の袋小路を、惣流・アスカ・ラングレーという「他者」が拒絶を示すことで、世界と自我の破滅と再生がなされます。先日お話したカテジナ・ルースも、主人公や世界を拒絶し、破滅と再生を導く他者だと考えています。自分が、他者がそこにいると感じるのは、やはり、拒絶という形で対話があるからではないか。

 伊藤計劃は、「監督が創造した世界の代弁者もしくは映画そのものの演出家という審級を与えられ」、「映画そのものを演出する映画内キャラクター。つまりは映画内における監督のキャラクター化」を、世界精神型悪役と呼びました。「機動警察パトレイバー2 the Movie」の柘植や、「ダークナイト」のジョーカーを例にしているのですが、この方法論は、監督が自らを他者化し、対話するプロセスだと思います。世界がこのように見える、というのを悪役に代弁させ、主人公に拒絶させる。胡乱なことを言えば、極めて一神教の思考に近く感じます。日本神話やギリシャ神話で、神は世界に内在する力で、「外部」ではない。ゆえに究極的な他者ではない。

 ただ、惣流・アスカ・ラングレーカテジナ・ルースを素朴に他者として消費するのは、ためらいがあります。二者とも男性からの客体化(主に恋愛関係において)を拒絶し、他者であろうとするのですが、そのような態度こそ「男性(制作者や視聴者を含む)」が願望を充足させるために用意した構図であり、それに無邪気にライドしている感覚があります。つまり、ギャルゲー的な女性の描写が願望充足のための他者である(=対話的ではない)程度には二者もそうなのではないかと思えるのです。

 「新世紀エヴァンゲリオン」の苛烈な拒絶を経てから制作された「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は他者としてヌルく、当時はさっぱりシラケていたのですが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で真希波・マリ・イラストリアスという「どうでもいい」他者がなんとなく助けてくれて、一緒に現実へ帰還するラストは感銘を受けました。これまでの話をひっくり返すようですが、絶対的な他者を希望するのは、絶対的な自我の幻想の反転に過ぎない。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」そのものが、自我とか他者とか「エヴァ」とか、極めてどうでもよく(なってしまった)、そのどうでもよさこそ、祝福であり、他者を真に「他者」とすることではないかと思えました。

 とはいえ、けっきょくそのようなグラデーション的他者を受け入れるのも苦しいのかもしれません。「どこでも族」と「どこか族」の図式はエレガントですが、身も蓋もない結論は、その間のグラデーションを皆が模索するしかない。「追放もの」のような極端さはファンタジーですし(だから夢なのでしょうが)。

 「追放もの」に限らず、極端に単純化して、現実の埋め合わせをするフィクションはしょうもなく見えてしまいます。例えば自分がカフカを面白く読めるのは現実よりも「カフカ的現実」の方が強力に立ち上ってくるからではないかと思えます。アニメなども最近はさっぱり楽しめず、知ったパターンの組み合わせでオタクの現実逃避を推奨しているものばかりに思えて、げんなりします。と言いつつ、女児アニメを見て現実逃避しているのですが。

 それより魚を見たりするのが楽しいというのはわかります。生き物の良さもやはり、誤解を恐れずに言えば「どうでもよさ」な気がします。もちろん、愛するのですが、それに拒絶も応答もしない、と思いきや拒絶したり応答したりするテキトーさが癒やしになるのかもしれません。