くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/18

鷲羽さんへ

 

 まずは伊勢田勝行監督の映像をご視聴して貰ってありがとうございます。「むき出しの他者の生の片鱗に触れたような感覚」というのは、かなりわかります。自分が監督の映像で生じる「畏れ」は、自分の「アニメを見ていた記憶」をかき乱すから生じると思っていましたが、もっと根源的に「生」と呼応しているのかもしれません。自分も三戸なつめのMVを見直したのですが、すごく胸が締めつけられるような切実さというか、「哀しみ」とは違いますが、泣いてしまいたい、泣いて終わりにしたい衝動に駆られました。それはやはり、一人の「生」の業を見せつけられているからなのでしょうか。

 自分は集合写真が不気味だと思ったことはないのですが、おぞましいとは時々感じてしまう。例えばそれは仮面ライダーのベルトを巻いて変身ポーズを決めたオタクたちであったり、ハッテンビーチでのゲイの集会だったり、JMoF(ケモノのコンベンション)の着ぐるみたちであったり、宝塚の入学式だったり……。これは、均一に自己カテゴライズされた人々の集まりが、一人ひとりの「生」を隠蔽しているように見えるからかもしれません。クラスの集合写真でも似たような気持ちになります。というのも、人の顔や自分の顔を区別するのが苦手で、クラス写真のどこに自分がいるのかわからない。人が、カタログの一部になって、自分もその一員であることが怖いのかもしれない。卒業アルバムに怖さは感じないので、やはり、大勢の中での均一さ、というのがポイントかもしれません。

 少し前、テレビを見ていたら、物干し竿を家の一階から二階へ、ぶつけないようにして運ぶゲームをしていました。すごくどうでもいい番組なのですが、それゆえに、この芸人やアイドルにとって、物干し竿を一階から二階へ運ぶ行為は人生においてどんな位置を持つのだろうと思ってしまいました。バラエティの仕事をしたい、と思っても、その仕事の中に、確実に物干し竿を運ぶことは想定されていないはずです。でも、その人の人生の一部として、物干し竿を運ぶという不毛な行為を繰り広げているという事実が、何か恐ろしかった。極論、労働とか生存とかひっくるめて、物干し竿を運ぶ行為と大差ないのかもしれないと思わせるような。

 藤井佯さんから頂いたお手紙の中で、目[mé]という展示のことを教えて貰いました。これも、「不毛な労働」を見せつけるものでした(いや、目[mé]はもう少し大きな視野でみすえていそうですが)。人がある場において役割の一部になることを露呈させるのは、「生」というパースペクティヴでも同様であると知るようで怖いです。以前、秋吉良人の「サド―切断と衝突の哲学」という本を読みました。そこでは、サドのテクストを読み直し、強姦や拷問といった悪徳が労働として行為されていることを指摘していました。サドにおいては「travail」の意味である「性行為」と「労働」が実践レベルで意図的に混同されている。論点は変わってしまうのですが、サドの労働性は、ギロチンによる機械的で平等な殺人装置を想起したし、あるいはホロコーストを思い出しました。「死」が絶対的に平等であるから、その次元で考えれば「生」もただ「死」に向かって等しく均一にあるだけなのかもしれない。また少し前、ツイッターで、以下のツイートを見かけました。

「裏金問題に際して「なぜ政治家は神経が図太いのか」と言われてるのをよく見るけど「政治家は下手すると僧侶より人の葬式に出てるので、楽観的に見える態度も最後は”死という究極の公平”に導かれると言う思いからくるのではないか」という松野博一の怖すぎる答えがあり笑ってしまう」

 このニヒリズムは、国政と物干し竿を運ぶこととの区別を嘲笑する気がします。これに対抗する手段は、「信仰」しかないように思えます。別に特定の宗教を信じるわけではなく、価値体系が在ると信じることです。と言いつつ宗教の話になってしまいますが、例えばモーセ十戒は、守れば救われて破れば罰せられるものではなく、神と人が対話する場を構築する上での前提だと並木浩一が述べていました。つまり、自らが信仰や価値判断や倫理を構築する前提として、提示されたものだということです。個々の人間について述べる人権思想が一神教の下で生まれたのは自然なことだと思えました。

 自分が安直に「大衆」と述べてしまうのは、個々の人間を見ることを避けているからに他ならないと思います。自分は、「窓の灯の向こうの人生ひとつひとつに向き合」うことは、とても難しい。手の届く範囲に限定してしまっても、そこには自分すら入らないかもしれない。鬱病になってからずっとクリニックに通っているのですが、カウンセリングではなく、心身の症状に応じてただ薬を処方されるという空間が心地良い。素朴に自分の心は、脳内物質の作用に過ぎないと切り捨てるのは安心します。

 「虚無への供物」を代表に、アンチミステリと呼ばれる多くが、価値判断の話になるのは自然なことだと思いました。エラリー・クイーンホロコーストの小説として読むなら、ホロコーストというニヒリズムから一人の尊厳を取り上げて信仰するなら、それはミステリという枠組みのべき論を越えて、自らの価値体系と対話することかもしれません。そう考えると、ミステリに限らずエンターテイメント(小説)は全て、ストーリー=因果と論理に仮託して、信仰を共有するシステムなのかもしれない。藤井さんへのお手紙で自分は、芸術とは、価値が創発でも止揚でもなく提示されることが重要だと述べました。そしてそれは露悪的な相対主義に陥るかもしれないと。これは可能性ではなく、やはり自分は露悪的な相対主義に溺れたいのかもしれません。ストーリーという価値判断の氾濫が恐ろしいのかもしれません。孤独と虚無の気持ちよさを破壊されるのが怖く、今、現実で行われている虐殺さえ無関心でいられてしまう。

 ストーリーに還元される怖さは、自分に限らない気はします。例えばハリウッド的な映画がつまらなかったとき、よく「ポリコレ」を遡上に上げる人を見ますが、その「ポリコレ」への反発は、映画内外を全てストーリー化してしまうことの反発ではないでしょうか。これは楽観主義ではなく、ほとんどの人は民族や人種差別はよくないと思うし、セクシャルマイノリティは好きにしたらいいし、男女同権は当然だし、障害者を愚弄したりしない。やるのは、たいていそれが「悪」だとわかっているから、逆説的にそのような倫理を内面化している。だけど、そのような現代に生まれた「信仰」がストーリーの形で普遍なものとしたとき、「信仰」を強要されるような嫌さを感じるのではないか。直接、宗教勧誘と同じ嫌悪だと思います。

 「HUGっと!プリキュア」はその点で興味深い作品です。プリキュアはシリーズが続く中で、極めて保守と言っていい、女児であるべき幻想へのビルドゥングスロマンに収まりました。それに対して、「HUGっと!プリキュア」はシスヘテロ中心主義から逸脱してみせたり、「少女」ではなく「母」としてのエンパワメントであったり、ざっくり乱暴に言うと、「ポリコレ」な要素が多いのですが、それはプリキュアのベースの保守的無害な牧歌さと反発し、異様に薄っぺらで説教臭く見えました。このバランスを取るために「HUGっと!プリキュア」がとった方法は、全人類をプリキュアにすることでした。比喩ではなく、展開として、本当に全人類がプリキュアになってしまう。おぞましいファシズムだと思いました。全て人類の「信仰」が「プリキュア」であれば、軋轢もイデオロギー闘争も存在しない。それは当然、個々の人間の顔を奪うことと同義である。「ポリコレ」への反発心は、大げさかもしれませんが、ファシズムへの恐怖かもしれない。

 ファシズムと戦う手段は、まさしく、「書くことをもっと書き手じしんの手に取り戻す」だと思います。そのために、個々の人間と、自分自身の顔を見つめなければならなく感じる。ここまで書いて、集合写真に感じるおぞましさがファシズムの察知かもしれないと思いました。一つのストーリーに我々が回収される引力が、集合写真にあるのかもしれません。

 ストーリーへの欲望と反発で、「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」を少し思い出したのですが、あれは何なんでしょう?

 「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」は理解できます。あれはボーイミーツガールという軸を擬態させた自己批評であり自己破壊であると。コンテクストが「交響詩篇エウレカセブン」へのアイロニーであるとわかる。だけど、「EUREKA」は依拠しているコンテクストがさっぱりわからない。例えば、ラストシーンは「逆襲のシャア」じゃん、と指摘するのは容易い。では、なぜ「逆襲のシャア」なのか考えると、理屈はあるはずなのに見えない。ハイエボリューション自体、全てシャドーボクシング的な作品に見えます。何か「エウレカセブン」と戦い続けているのに、「エウレカセブン」がわからない……。「ANEMONE」は素直に(?)「エウレカセブン」(?)と戦う話でわかりやすい(?)と思ったのですが……。「EUREKA」は、「エウレカセブン」に回収されることの愛憎、欲望と反発があるように見えるのです。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、時間が経ってしまえば、「エヴァ」に回収されることなんてどうでもいい、という身も蓋もない結論がありました。一方で「EUREKA」は囚われていそうだけど逸脱していそうだし、その沸点もわからないから、映画との距離感を掴めない。面白いとは思ったのですが、そのポイントもやはり不明で、すごく不思議な映画でした。「エウレカセブン」ファンじゃないからわからないのかも、と思ったので、何と言うか、どのような距離感でご覧になったのかお聞きできますか? どう向き合う映画なのか、そもそも「エウレカセブン」とどのように向き合うのか、自分ではハテナマークでいっぱいです。