くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/21

藤井さんへ

 

 「胎界主」を第一部まで読み終えたのですが、なかなか難物ですね……。よく、「生体金庫」まで読んでと聞くので、とりあえず第二部を読み終えれば消化しやすくなるのかもしれませんが、ちょっと自分にはキャパオーバーかもしれません。正直、「胎界主」をまったくわかってないのですが、「ストーリー自体は非常にわかりやすい」と感じる気持ちはわかるかもしれません。「胎界主」や「アカーシャ球体」、「いのち」、「たましい」……などを、わからないまま読むことは「翻訳」に他ならず、胎界主を読む営み自体が、極めて胎界主であり、その階層構造は、「物語」に限らず人の営み全般にまで広がって、それも胎界主かもしれない……。というより、本当にわからなかったので、そのような寓話の次元に「翻訳」してしまった感じはありますが。裾野の広さは感じるのですが、何か原液(「原典」と呼ぶべきか)を垂れ流されているような読み心地で、わからないまま読み進めていると、「原典」の描写が、例えば「胎界主」や「稀男」の名において機能し、象徴化されるような感覚がありました。雰囲気で個々のシーンを読み流していると、面白い気がしたりもするのですが、その「面白い」の力点の置き方を掴めないままというのが現状です。なんとなく、エモそうとかかっこよさそうとかギャグそうとか、浅い把握しかできませんでした。一方、例えばwikiとかを見て、キャラや用語の解像度を高めて読めば、「胎界主」を読めるようになるかも、という感覚はあまりありません。「伏線」とか「考察」とかは、時系列に沿った情報提示の方法から読解を探る方法だと思うのですが、「胎界主」において描写されるものは、ある本質をその状況においてどのように捉えるか、という方法をとっているように見えます。だからエピソード単位でも因果で把握されるものではないため、wikiで辞書的に用語の意味を聞いても理解には繋がらず(提示される情報は因果=ストーリーとして提示される以前の本質だから)読む体験の中でしか理解は得られないように感じます。誤解を恐れずに言えば、何が面白いのかわからない。そのわからなさに漂う時間が必要かもしれません。

 クッキー☆の件については失礼して申し訳ないです。ご放念下さい。「面白くない人」に厳しくなってしまうのは自分もそうで、自虐もありますが、オタクを粛正してやりたい、という気分が抜けません。以前、自分は「つとむ会」というオタクサークルに属していました(もっとも「つとむ会」のDiscordサーバーはまだ残っているし、そこに自分のアカウントも所属したままなのですが)。

 

https://tsutomu-kai.memo.wiki/d/%b5%dc%ba%ea%bb%d8%c6%b3%bc%d4%a4%cb%a4%e8%a4%eb%b3%b5%c0%e2

 

 昔、フォロワーだった、「ふわぽへ」という方の書いた「つとむ会」の理念です。「つとむ会」はけっきょく、「ふわぽへ」がツイッター含むほぼ全てのアカウントを削除、放置してネット上から消え、残った「つとむ会」メンバーで一冊の同人誌を出した後、自然消滅しました。自分は「つとむ会」メンバーと反りが合わず、ほとんど傍観しているだけでしたが、ここでの「おたく」像にはまだ未練がある気がします。「つとむ会」が失敗したのは、けっきょくつまらない、非生産的な社交に淫したからだと思えます。しかし、「つとむ会」とは異なる方法を得るのは難しい。面白くないものへの距離感は、自分はまだわかりません。少なくとも自分にとっては、底辺youtuberを視聴することではなかった。

 当たり前ですが、「おたく」であるとか、小説を書いているとか、それだけで気が合うわけじゃないですね。別にそこから交友を広げるのも悪いことではありませんが、自分に社交は難しいです。好きなものを好きなように書いて、身内で楽しむ感じは無理かな、とBFCとかに応募して確信してしまいました。取れる方法は、程よい孤独を楽しむことしかないのかもしれない。

 例えば他の人にも、サドのテクストについて話したのですが、幼稚なくせに頭でっかちで、自分勝手で被害者がかわいそうだから嫌い、と率直に言われました。やはり、自分はそのように返答してくれるコミュニケーションを求めている。共感や連帯も必要だと思いますが、実直な「批評」を欲している。大学のゼミに入ったとき、小中高のクラスと異なり、こんなに楽で楽しいコミュニケーションがあるのか、と感動しました。自分が人の輪に入るためには、何かゼミのような生産性が必要なのかもしれません。粛正してやる、と叫ぶだけでは、けっきょく自分が苦しいだけですね。

 しかし、こういう自分のコミュニケーションのスタンスが人にストレスを与えるのも事実で、それを辛く感じます。アルバイト先の塾で、子どもたちが自分の言葉に威圧されてしまっているのを感じますし、学生のとき、パワハラ的だと指摘されてトラブルが起きたことも数え切れない。藤井さんが、手紙が面白くないと仰ったのも、やはり自分の、議論の体の、尋問的な部分のせいではと思っています。だから、前言を撤回するようですが、本当に必要なのは「つとむ会」のような他愛のないコミュニケーションなのかもしれません。共感や知識の共有で成り立つ不毛さや弱さを受け入れることかもしれません。「おたく」としての生存戦略はそれしかないように思えます。