――その向こう側に何もなくてもかまわないから――(川添智久『STAND UP TO THE VICTORY』)
はじめに
カテジナ・ルース「冬がくるとわけもなく悲しくなりません?」
そう言ってシャクティと別れた盲目となったカテジナと、廃棄されたモビルスーツを映して「機動戦士Vガンダム」は幕を終える。
その光景に私は言いようのない「どうしようもなさ」を感じる。
元来カテジナ・ルースは独善的な言動や多数の主要キャラクターを殺害してきたことから「悪女」と評されていた。一方で、そのような言説に対抗して、いや、「カテジナはあの戦場でまともだったのだ」と擁護する向きもある。だが、果たしてカテジナはそのような二元論で片付けていいのだろうか。悪女ならラストは、その所業の罰として、まともなら不当な報いとして納得できるだろう。しかし、どちらにも首肯しがたい。では、カテジナとはどのような存在なのか。ここでは記号的キャラクターが「死ぬ」ということの意味及びそれがなされる視聴者側、制作側の体制から考える。
第1章:記号的身体と「もっともらしさ」の構築
1.1 大塚英志の「アトムの命題」:記号的キャラクターと身体性の矛盾
アニメーションにおける身体性の問題を考察する上で、大塚英志の「アトムの命題」は重要である。大塚は、初期アメリカアニメーション(特にミッキーマウスに代表される作品群)の身体表現を分析し、そこに「身体性を持たない」記号的な身体のあり方を見出した[i]。この「身体性を持たない」記号的身体は、三輪健太郎が指摘するように「記号的身体」「傷つかない身体」として概念化される[ii]。大塚は手塚治虫がこの記号的キャラクターに「リアルに傷つき、死にゆく身体」を与えたことによって、戦後日本のマンガ・アニメーションが根本的な変容を遂げたという指摘する[iii]。さらに手塚は「身体」を支える「内面性」をリアルに描くことで、「私」の容れ物としてのキャラクターに生身の身体を与え、それによって「私」のあり方がよりリアルになるという循環構造を構築した[iv]。この「内面」と「身体」の相互支持関係こそが、戦後日本のマンガ・アニメーションにおけるリアリズム獲得の核心である。しかしこの営為は本質的に矛盾を孕んでいる[v]。「記号-非リアリズム」と「写実-リアリズム」とは対置されるべきであり、「記号的キャラクター」に「傷つく身体」を与えることは「矛盾」とされる。
1.2 伊藤剛の「キャラ/キャラクター」論:実在感の隠蔽と顕現
大塚の提起した問題を、反転させたのが伊藤剛の「キャラ/キャラクター」論である。伊藤は、マンガ・アニメーションにおける登場人物を「キャラ」と「キャラクター」という二つの概念に分節化することで、記号的表現がいかにしてリアリティを獲得するか論じた。
伊藤は以下のように定義する。
「キャラ」:「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、『人格・のようなもの』としての存在感を感じさせるもの」[vi]
「キャラクター」:「『キャラ』の存在感を基盤として、『人格』を持った『身体』の表象として読むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活』を感じさせるもの」[vii]
伊藤は手塚治虫の『地底国の怪人』における耳男の死を分析し、その衝撃が「もっともらしさ」ではなく、キャラの持つ「かわいさ」、すなわち「プロトキャラクター性」の強度に由来することを指摘する。さらにこの場面における耳男の描写が「身体性を欠いている」と指摘する[viii]。
つまり伊藤によれば記号的な「キャラ」が本来的に持つ実在感こそが、「キャラクター」としてのリアリティの基盤となっている。しかし同時に、「キャラクター」が成立するためには、この記号性を隠蔽し、あたかも「身体」の表象であるかのように見せかける必要がある。記号的な「キャラ」が本来的に持ちうる「リアリティ」を隠蔽し、それを「(人格を持った)身体」の表象たる「キャラクター」として読ませることで、近代マンガはリアリズムを獲得した[ix]。大塚が「矛盾」と捉えたものを伊藤は「根拠」として読み替えたといえる。
1.3 アニメーションの空間表象技術と現実感の創出
アニメーションのキャラクターは、「パターンに沿った類型的なもの」すなわち「記号的」なデザインを施されざるをえない[x] [xi]。
この記号化の必然性は、アニメーションの制作体制そのものに根ざしている。しかし同時に、アニメーションは映画的な空間表象技術を援用することで、記号的表現でありながら現実感のある空間を構築することが可能である。
映画理論家アンドレ・バザンは、映画の本質を「完全なリアリズムという神話」の実現として捉えた[xii]。バザンにとって重要なのは、「相似とか類似とかいう何らかの特性ではなく……世界と映画とのあいだの実体的絆」であった[xiii][xiv]。しかし、アニメーションにおいては、この「実体的絆」は存在しない。にもかかわらず、アニメーションは独自の技術的手法によって現実感を創出する。具体的には、音響、色彩、マルチプレーン・カメラ、(加えて3DCG)である。
音響技術は、画面外の空間の存在を示唆することで、フレーム内の光景が完結したタブローではないことを強調する[xv]。色彩は、「事物の運動、それは色の運動である」という原理に基づいて、運動の現実感を支える[xvi]。マルチプレーン・カメラは、背景を複数の層に分割し独立して動かすことで、現実的な「奥行き」感を実現する。
これらの技術Vガンダムにおいても活用されており、は、記号的表現でありながら、映画的な空間表象の効果を生み出すことを可能にする[xvii]。
このように、アニメーションは記号的表現と空間表象技術の組み合わせによって、独自のリアリティを構築する。しかし、この構築されたリアリティは常に不安定であり、その基盤となる記号性が露呈する可能性を孕んでいる。
第2章:Vガンダムにおける身体拡張と生死の攪乱
2.1 身体拡張としてのモビルスーツ:「建築する身体」の実現
かつてより巨大ロボットを身体の拡張として捉える論点は存在している[xviii]。とりわけ、Vガンダムにおけるモビルスーツも例外ではない。この身体拡張の概念を理解する上で、メルロ=ポンティの身体図式論は重要な理論的基盤を提供する。メルロ=ポンティによれば、身体図式とは「位置の空間性」ではなく「状況の空間性」であり、杖を床に着いて歩く時の身体図式は身体や杖や床を含めた全体的なゲシュタルトとして機能する[xix]。モビルスーツは、まさにこの身体図式の拡張として機能している。パイロットは、モビルスーツを単なる操縦対象として扱うのではなく、自らの身体の延長として体験する。この身体拡張は、特にサイコミュ技術によって顕著に表現される。
過去のガンダムシリーズにおいても、サイコミュ技術による身体拡張は重要なテーマであった。
「機動戦士Zガンダム(1985-1986年)」第50話において以下のような会話がされるのは直接的である。
カミーユ「わかるまい、戦争を遊びにしているシロッコには。この、オレの身体を通して出る力が」
シロッコ「身体を通して出る力、そんなものが、モビルスーツを倒せるものか」
カミーユ「何」
フォウ(亡霊?)(カミーユはその力を表現してくれるマシーンに乗っている。)
ロザミア(亡霊?)(Zガンダムにね。)
シロッコ:「女の声?」
また、「機動戦士ガンダムF91」(1991年)では、モビルアーマー、ラフレシアと過度に同調し自滅するカロッゾ及び、シーブックがモビルスーツ、F91のバイオセンサーと同調して宇宙にいるセシリーを発見する描写が見られる。
Vガンダムにおいては、特にファラ・グリフォンとザンネックの関係は、身体拡張の極限的な形態を示している。Vガンダム第41話「超高空攻撃の下」で以下のようにファラは述べる。
「寄って来る寄って来る。蜂が蜜に寄るように上がって来る。ギロチンの家系がつけなければならない鈴がザンネックの鈴になり、その鈴がマシーンの動きの周波数に連動して、あたしの頭の中に敵の姿を感じさせるんだよ」
この描写は、モビルスーツとパイロットの境界が曖昧になり、機械と人間が一体化する状況を示している。ファラにとって、ザンネックは単なる兵器ではなく、自らの感覚器官の拡張として機能している。この描写はファラの死の直前でも同様の機能が働いている。Vガンダム第47話「女たちの戦場」でファラがマーベットの妊娠に動揺した際の「一つの命の中に二つの命があるというのか、なぜだ」という発言は、身体拡張が生命の境界そのものを問題化することを示している。
この身体拡張の概念は、荒川修作+マドリン・ギンズの「建築する身体」論と共鳴を示している。荒川+ギンズによれば、「建築する身体」とは現象学や認知科学などの知見に基づき、「生身の身体と建築的環境との間にあり、両者の媒介ともなっている」身体性のレベルである[xx]。
モビルスーツは、この「建築する身体」として読むことができる。パイロットは、モビルスーツを通して環境との新たな関係を構築し、戦場という極限状況において自らの身体性を再編成する。身体と建築環境の相互作用を前提として空間配置による認知の変容が発生し、単一主体から複数主体への移行が行われるプロセスは、パイロットとモビルスーツの一体化、コクピット空間での感覚拡張、主体の複数化(曖昧化)とパラレルに解釈できる。
2.2 エンジェル・ハイロゥの機能分析:祈りによる生死境界の攪乱
エンジェル・ハイロゥとは、マリア/シャクティの祈りをサイキッカーが増幅し、地球上の生物に影響を与える装置である。
ザンスカール帝国のフォンセ・カガチは、エンジェル・ハイロゥを地球上の生物を安楽死させる(退行化)装置として運用しようとする。カガチの「平穏を願う究極の姿は赤子であろうが」という発言は、この装置の目的を端的に示している(第46話「タシロ反乱」)。しかし、エンジェル・ハイロゥの影響は、単純な安楽死装置の範囲を超えて、生死の境界そのものを攪乱する効果を持つ。
第45話「幻覚に踊るウッソ」では、エンジェル・ハイロゥから発せられたマリアの祈りを受けたウッソが、これまでの故郷や戦場の光景を幻視する場面が描かれる。この幻視は、単なる回想ではなく、過去に放送された映像がそのまま挿入されるという、いわゆる「バンク」技法の応用を用いて表現される。視聴者は、これが作品内現実なのか、視聴者向けの演出なのかを判断することが困難になる。
第50話「憎しみが呼ぶ対決」、第51話「天使たちの昇天」では、エンジェル・ハイロゥのシャクティの祈りによって戦場での戦意が落ちていく様子が描かれる。「あたたかい光/ウォームバイブレーション」を発し解体していくエンジェル・ハイロゥに拘引されて、戦場から離脱するモビルスーツが続出する。この「あたたかい光」は、「武器を捨て故郷へ帰れ」というメッセージを伝達し、戦争そのものの無意味さを訴える。
エンジェル・ハイロゥの影響は、祈りの共有、赤子が言葉を話す、兵器の排除など、広範囲にわたる。重要なのは、この装置をコントロールしているシャクティ自身にも「どうなるかわからない」という状況が生じることである。これは、エンジェル・ハイロゥが単なる技術的装置ではなく、制御不可能な力を持つ存在であることを示している。
一方でVガンダムにおいて、カテジナ・ルースは他の登場人物とは根本的に異なる反応を示すキャラクターとして描かれている。最も顕著なのは、エンジェル・ハイロゥから発せられる「あたたかい光/ウォームバイブレーション」に対する拒絶反応である。第50話、第51話において、エンジェル・ハイロゥのシャクティの祈りによる「あたたかい光/ウォームバイブレーション」に吐き気や不快感を示すキャラクターはカテジナのみである。カテジナだけがこの影響を「神経を逆なでする」ものとして体験する。この反応は、エンジェル・ハイロゥの祈り=故郷への嫌悪として理解することができる。ウッソの「カガチのやっていること(エンジェル・ハイロゥによる殺戮)が本当は正しくないと思っているんでしょう」という問いに対して、カテジナは以下のように応答する。
「そうだよ坊や。私はね、クロノクルという巣を見つけたんだ。なのにお前とシャクティはそれを笑った。チビのくせに」
この発言は、カテジナの拒絶が単なる感情的反応ではなく、自らの存在基盤に関わる問題であることを示している。カテジナにとって、クロノクルとの関係は「巣」、すなわち自らのアイデンティティの拠り所であった。しかし、ウッソとシャクティによってその関係が「笑われた」と感じたことで、カテジナは根本的な疎外感を抱くようになる。エンジェル・ハイロゥの祈りは、「武器を捨て故郷へ帰れ」というメッセージを伝達するが、カテジナにとって故郷とは、自らが拒絶された場所である。したがって、この祈りは癒しではなく、さらなる疎外の確認として体験される。
カテジナの特異性は、エンジェル・ハイロゥの祈りへの拒絶だけでなく、死者との対話の拒否にも表れている。Vガンダム終盤において、多くの登場人物が死者との対話を体験する中、カテジナは死者たちに対して「まやかすな」と悲鳴をあげる。
カテジナは、他の登場人物が体験する超感覚的な現象を、幻覚や錯覚として退ける。しかし、この拒否は完全に成功するわけではない。カテジナ自身も、戦闘の過程で様々な幻視を体験する。
最終回(第51話「天使たちの昇天」ラストシーン)において、カテジナは盲目となって故郷に帰る様子が描かれる。この描写は、エンジェル・ハイロゥの祈り「武器を捨て故郷へ帰れ」を最後まで拒否していたカテジナが、モビルスーツと視力の喪失によって「武器を捨てざるをえなくなった」状態となる。
この盲目での帰郷は、最後まで戦い続けようとしたカテジナの敗北であり、エンジェル・ハイロゥの祈りの強制された受容である。カテジナは自発的に故郷への帰還を選択したのではなく、他に選択肢がない状況に追い込まれた結果として帰郷する。
幻覚、亡霊によって登場人物の生死が曖昧になったのちにカテジナは明確に生き残る。主な最終回時点での生存者は、ウッソ、シャクティ、マーベット、ウォーレン、スージー、エリシャ、マルチナ、カテジナ、リーンホースJrの若いクルーたちであり、その他主な登場人物は全員死亡している。特にウッソ、マーベット、カテジナを除いて、生存者の多くがモビルスーツに乗らない人物である(マーベットもラストでは搭乗していない)。これは、モビルスーツによる身体拡張が、同時に死の危険を増大させることを示唆している。
カテジナの生存は、攪乱を拒否し続けた結果としての生存である。他の登場人物が生死の境界の曖昧化の中で消失していく中、カテジナだけが明確な境界線を維持し、それによって生存を確保する。しかし、その代償として、カテジナは視力と戦闘能力を失い、故郷という「廃墟」への帰還を余儀なくされる。
第3章 メタレベルとベタレベルの攪乱
3.1 アニメーションにおけるメタレベルとベタレベル
アニメーション作品を分析する際、二つの異なる次元の表象について定義したい。一つは作品内の現実として表象されるもの、すなわち「ベタレベル」であり、もう一つは視聴者向けの演出として機能するもの、すなわち「メタレベル」である。この区別は、アニメーション特有の表現技法を理解する上で極めて重要な概念的枠組みを提供する。
Vガンダムにおいて、ベタレベルとは基本的に作品内の現実として表象されるものを指す。本作品の作画水準においては、背景や人物は心理的効果によって(基本的に)デフォルメされることなく、一種の「写実」として描写される。これは第1章で論じた大塚英志の「記号的キャラクター」に「傷つく身体」を与えるという戦後まんが史の展開と軌を一にするものである。
作品の序盤から中盤にかけて、画面は「ベタレベル」から大きく逸脱することはない。キャラクターたちの行動、モビルスーツの戦闘、背景の描写は、すべて作品内の現実として一貫した空間的・時間的論理に従って表象される。この段階では、視聴者は安定した認識枠組みの中で物語を受容することができる。
一方、メタレベルとは視聴者向けの演出として機能するものを指す。Vガンダムにおける主要なメタレベル的演出として、モビルスーツの外部とその内部のパイロットを同じ画面に映すいわゆる「ピザ割カット」が挙げられる。この技法は序盤から多用されており、作品内での例外的非光学的カットとして機能している。通常の光学的論理に従えば、モビルスーツの装甲に遮られたパイロットの姿が外部から見えることはありえない。しかし、この演出技法は視聴者にとってパイロットの心理状態や戦闘における緊張感を効果的に伝達するために用いられる。
この記号化の必然性は、アニメーションにおけるメタレベル的演出の存在理由を説明する。視聴者は、これらの演出が作品内の現実ではなく、物語の効果的な伝達のための技法であることを理解し、それを受け入れる。
しかし、Vガンダムの終盤において、この安定したベタレベルとメタレベルの区別は根本的に攪乱される。エンジェル・ハイロゥの本格的な稼働とともに、作品内には「メタレベル」的な「演出」が急激に増加する。視聴者は当初、これらの描写の差を「区別」しようと試みる。すなわち、これはベタレベルの画面なのか、それともメタレベルの画面なのかという判断を行おうとする。
ところが、この「区別」そのものが困難になる事態が生じる。エンジェル・ハイロゥによる幻視の描写は、従来のメタレベル的演出とは質的に異なる特徴を持つ。それは単なる視聴者向けの演出ではなく、作品内の現実として提示される超常現象でもある。この二重性により、視聴者は画面が「攪乱」されていると認識するようになる。
この攪乱の特殊性は、生死の境界の曖昧化と密接に関連している。第2章で論じたように、エンジェル・ハイロゥの影響下では死者との対話や幻視が頻繁に描かれる。しかし、これらの描写が作品内の現実なのか、それとも視聴者向けの演出なのかを判別することは極めて困難である。生死の攪乱(亡霊/幻視)は、生死が視聴者の認知において「もっともらし」くないと成立しない。記号的キャラクターはそもそも単なる絵であり「生死の概念の適用以前」であるため、同時に生死のもっともらしさは「生死が攪乱されている」という認知の上で強く成り立つ。
エンジェル・ハイロゥの「幻視」は、まさにベタレベル(作品内現実)とメタレベル(視聴者向け演出)の表現を架橋し、攪乱する機能を果たしている。この攪乱により、従来のアニメーション受容における安定した認識枠組みは解体され、視聴者は新たな受容様式を要求される。
3.2 「機動戦士Vガンダム」における攪乱の技法
最も顕著な攪乱の技法として、第45話「幻覚に踊るウッソ」における過去映像の再利用が挙げられる。この回では、エンジェル・ハイロゥから発せられたマリアの祈りを受けたウッソが、これまでの故郷や戦場の光景を幻視する。重要なのは、この幻視の描写において、実際に過去の放送で使用された映像がそのまま再利用されていることである。
この自己引用の技法は、単なる制作上の便宜ではない。それは視聴者の記憶と現在の視聴体験を直接的に接続し、作品の時間的境界を攪乱する。視聴者は、画面に映し出される映像が「過去に見たもの」であることを認識しながらも、それが「現在のウッソの幻視」として提示されることで、複層的な時間意識を強いられる。過去の映像は、もはや過去の出来事の記録ではなく、現在進行形の幻視として機能する。
この技法により、作品の内部と外部の境界も曖昧になる。過去の放送映像は、本来であれば作品外部の制作史に属するものである。しかし、それが作品内の幻視として再利用されることで、制作史と物語内容が重層的に結合する。視聴者は、自らの視聴体験の歴史が作品内の現実として回帰する事態に直面する。
エンジェル・ハイロゥの稼働前後から、作品内では幻視と現実の区別が極めて困難になる。第42話「鮮血は光の渦に」では、搭乗しているモビルスーツに重なって画面に描写されるルぺ・シノの裸体が映し出され、直後にウッソの歪んだ顔が描かれる。しかし、ウッソがルぺ・シノを実際に「見て」いるのか、それとも幻視なのかは明示されない。
このような描写の曖昧性は、従来のアニメーション表現における明確な区分を解体する。通常、アニメーションにおいては、現実の描写と心理的・象徴的描写は明確に区別される。前者は作品内の物理的現実を表象し、後者は登場人物の内面や作品のテーマを視覚化する。しかし、Vガンダム終盤では、この区別そのものが無効化される。
エンジェル・ハイロゥの影響を考慮しなくても、視聴者に向けたメタレベルの映像なのか、キャラクターに対するベタレベルの映像なのかが判別不可能な例が多発する。第38話「北海を炎にそめて」では、演出かのように提示された死者の走馬灯(空を走るオートバイ)が、実際には他の登場人物にも目撃されていたことが露呈する。オデロの「あれオートバイでしょ」という言及は、幻覚的な映像が単なる演出ではなく、作品内の共有された現実であることを示唆する。
終盤に頻出する「幻視」の描写は、メタレベルかベタレベルかの判断を視聴者に保留させる効果を持つ。これらの描写は、従来のアニメーション表現における明確な区分を意図的に攪乱する技法として機能している。
エンジェル・ハイロゥの影響は、ベタレベルなのか表象(演出)=メタレベルの変化なのかの判断を困難にする。この判断困難性は、伊藤剛が論じた「プロトキャラクター性の隠蔽によるリアリズムの獲得」が破綻する段階に作品が到達していることを意味している。伊藤によれば、マンガのキャラクターは「簡単な線画を基本とする『キャラ』(記号的身体)の持つ実在感にこそ支えられている。しかし、それを基盤としながらも、『キャラ』が本来記号的なものでしかなかったことを隠蔽し、あたかも『身体』の表象であるかのように見せかけることで『キャラクター』が成立する」。
Vガンダム終盤では、この隠蔽機制そのものが前景化し、攪乱される。キャラクターの記号性と身体性の矛盾が、もはや隠蔽されることなく、むしろ積極的に露呈される。この露呈により、視聴者は従来の安定した受容様式を維持することができなくなる。
Vガンダム終盤における最も重要な効果は、視聴者の主体意識そのものの攪乱である。この攪乱は、単に作品内容の複雑化にとどまらず、視聴という行為の根本的な性質を変容させる。
攪乱の核心は、キャラクターの「もっともらしさ」と判断不可能性の間に生じる矛盾にある。大塚英志的な意味でのキャラクター性が死の「もっともらしさ」を担保する中で、作品内では生死が攪乱し、みずから「もっともらしさ」を剥奪する事態が生じる。この矛盾的状況において、カテジナ・ルースはその攪乱を明示的に否定(「まやかすな」)し、最終的に明確に生き残る存在として描かれる。
再びカテジナの「まやかすな」という発言を捉えると、二重の意味を持つ。第一に、それは作品内の他の登場人物たちが経験している幻視や死者との対話を拒絶する発言である。第二に、それは視聴者に対して、これらの幻視的描写を単純に受け入れることへの警告として機能する。カテジナは、作品内において攪乱に抵抗する唯一の存在であると同時に、視聴者の批判的意識を代弁する存在でもある。この二重性により、カテジナは作品の攪乱構造における特権的な位置を占める。
そして攪乱の過程において、視聴者は単一の主体として作品を受容することができなくなる。代わりに、複数の知覚様式の束として分散した主体性を経験することになる。この分散は、従来のアニメーション受容における統一的な主体意識の解体を意味する。
視聴者は、キャラクターの「もっともらしさ」を読み取る様式と、亡霊/幻視の「もっともらしさ」の判断不可能性を認容する様式を同時に作動させることを要求される。前者は、序盤から画面を駆動させていた光学的画面構成の空間の表象に基づく生死の「もっともらしさ」に依拠する。後者は、これは「光景」なのか「演出」なのかという判断を保留し、その判断不可能性をそのまま受け入れる。Vガンダムの終盤においては、観客は以下の複数の鑑賞態度を同時並行的に作動させることになる。第一に、キャラクターに感情移入する(もっともらしさを感じる)態度。第二に、記号として読み取る(もっともらしさに依拠しない)態度。第三に、その区別ができない(もっともらしさの判断保留)態度。これらが同時並行的に作動することで、単一の鑑賞態度(これはリアリズム、これは非リアリズムと判断する主体)が解体される。
この解体は、生死の攪乱と生死のもっともらしさが「私」の中で同居してしまったまま視聴を続けたVガンダム視聴者にとって、不可避の経験となる。視聴者は、もはや統一的な判断基準を持つことができず、矛盾した認識を同時に保持することを強いられる。この状況は、キャラクターの大塚英志的「矛盾」が前景化する自己言及的ループを形成する。生死の攪乱(亡霊/幻視)は、生死が視聴者の認知において「もっともらし」くないと成立しない。記号的キャラクターはそもそも単なる絵であり「生死の概念の適用以前」であるため、同時に生死のもっともらしさは「生死が攪乱されている」という認知の上で強く成り立つ。この矛盾的構造において、伊藤剛のキャラ/キャラクター概念も適合しなくなる。伊藤の説明によれば、「キャラの実在感こそがキャラクターの基盤となる」はずであるが、Vガンダム終盤では、この実在感そのものが攪乱の対象となる。キャラクターの実在感は、もはや安定した基盤ではなく、常に攪乱される可能性を内包した不安定な構築物として現れる。生死が攪乱される(もっともらしいか否かの判断以前への回帰)ために生死が「もっともらしい」という矛盾をそのまま受容する主体(視聴者)が要求される。この主体は、従来の論理的一貫性を放棄し、矛盾を矛盾として受け入れる新たな認識様式を獲得する。
幻覚が最頻出する第45話「幻覚に踊るウッソ」近辺から、視聴者はもっともらしさの判断を保留する状態に置かれる。他の幻視描写では、現実/幻視の区別をキャラクターはしない、あるいはできない状況が描かれる。ファラのように超感覚を肯定する場合もあれば、幻覚を見ている可能性を検討できたのはウッソ(第49話「天使の輪の上で」)のみという状況もある。
またエンジェル・ハイロゥによる描写の攪乱を「演出」としてのみ処理すると説明できないシーンが多数存在する。アニメの映像、での死者との実際の対話(マリアの死の際、ウッソが「独り言」でマリアと会話するシーン、オデロの死の際、「独り言」で父親と会話するシーン)は、光学的光景として描写される。
この保留状態は、従来のアニメーション受容における確信的な判断を不可能にする。ディズニー映画のような高度に分業化された集団制作による統一的世界観や、ジブリ作品のような複数スタッフによる制作でありながら宮崎駿や高畑勲らの統一的ビジョンによって統制された作品では、判断の保留を必須としない。しかし、Vガンダムでは、この保留こそが適切な受容様式となる。
第4章 〈作者〉の意図をこえて
4.1 視覚技術
Vガンダムにおける攪乱の効果を理解するためには、アニメーションという視聴覚技術の特性を詳細に分析する必要がある。この技術的特性は、単なる表現手段にとどまらず、作品の意味生成と受容のプロセスそのものを規定する。
アニメーションは、以下の四つの基本的特性を持つ視聴覚技術として理解できる。第一に【集団性】、すなわち複数専門家による分業的制作である。第二に【外面性】、すなわち視聴覚情報の物理的提示である。第三に【同時性】、すなわち映像・音響・物語の同時進行(視聴時間は線形的)である。第四に【能動性】、すなわち視聴者による情報の能動的処理である。
この【能動性】について、中井正一は映画の時間性に関して重要な指摘を行っている。「映画の時間は、画面と画面の移りゆく推移、カットとカットの連続で描かれているのである。言語の世界では、表象と表象をつなぐには『である』『でない』という繫辞(コプラ)をもってつなぐのである。文学者は、この繫辞でもって、自分の意志を発表し、それを鑑照者に主張し、承認を求めるのである。ところが、映画は、このカットとカットを、繫辞をさしはさむことなくつないで、鑑照者の前に置きっぱなしにするのである。鑑照者は、自分自身の、胸三寸に潜めている願いをもって、それらのカットを自分でつないで見ていくのである」[xxi]。
この指摘は、映像受容の能動性を明確に示している。視聴者は、提示された映像断片を自らの認識枠組みによって接続し、意味を構築する主体的な役割を担う。Vガンダム終盤における攪乱は、まさにこの能動的な意味構築プロセスを標的とし、視聴者の認識枠組みそのものを攪乱する。
加えて、アニメーションの制作体制は、【集団協働型】と【技術標準型】の二つの特徴を持つ。【集団協働型】とは、複数主体による協働的制作を意味し、複数主体が「富野由悠季」の監督の名の下で作品を「制作」する体制である。【技術標準型】とは、共有可能な技術による制作の制度化を意味し、セル画技術、作画技法、音響技術などの標準化された技術体系に基づく制作である。
これらの特徴は、【潜在型】の効果を生み出す。すなわち、アニメの制作方式が本来持つ個人の制作行為から共同体への展開可能性である。個々の制作者の意図は、集団的な制作プロセスを通じて変容し、最終的には誰の意図とも言えない効果を生み出す可能性を持つ。Vガンダムにおいては、この【潜在型】の効果が特に顕著に現れている。にもかかわらず主体意識の解体が可視化される「攪乱」が生じるのは、制作体制の特殊性と密接に関連している。
通常のアニメ制作においては、設定統一→作画統一→視聴者の安定的受容という流れが確立されている。しかし、Vガンダム終盤においては、設定攪乱(生死不明)→作画攪乱(幻視/現実混在)→視聴者の判断不可能という異なる流れが生じている。
この破綻は、偶然の産物ではなく、意図的な攪乱の結果である可能性がある。メタレベル/ベタレベルの意図的混同は、第45話の自己引用(過去の放送映像の現在への挿入)や幻視描写(演出的表現か作品内現実かの判別不可能化)において顕著に現れている。
制作意図の分散と統合は、Vガンダムにおける重要な効果を生み出している。【富野監督の意図】【演出陣の意図】【作画陣の意図】【音響陣の意図】これらが統合されることで、単一の制作意図では達成できない複層的効果が生まれる。この効果は、視聴者における複数の受容様式の同時喚起を可能にする。
技術的制約による創造性も重要な要素である。【セル画技術の制約】→【記号的表現の必然性】→【身体性表現の困難】→【制約の逆手活用】→【記号性を利用した幻視表現】→【境界攪乱の達成】という流れにより、技術的制約が創造的な表現の源泉となっている。
さらにVガンダムの最も特異な点は、制作と受容の相互攪乱にある。視聴者が「これは幻視か現実か」を判断(を保留する判断をする無限階梯)することで、作品の意味を能動的に制作する主体となる。この過程において、視聴者は単なる受容者ではなく、作品の共同制作者としての役割を担うことになる。
制度的制作、すなわち産業システムによる制作可能性の規定という枠組みの中で、Vガンダムは従来の制作/受容の境界を攪乱する新たな可能性を示している。視聴者の能動的な意味構築が、作品の制作プロセスの一部として機能する事態が生じている。
この相互攪乱は、従来の〈作者〉概念を根本的に問い直す。作品の意味は、もはや制作者の意図によってのみ決定されるのではなく、視聴者の能動的な参与によって継続的に生成される。この生成プロセスにおいて、〈作者〉の特権的地位は解体され、制作者と受容者の協働による新たな創造様式が出現する。
映画制作においては同様の効果が多数例示できるだろう。例えば、リュミエール兄弟による初期映画――赤ちゃんの食事風景――において、観客の注意をひいたのが、赤ちゃんよりもむしろ背後でただ風に揺れている木だったことに注目してもいい。だが、アニメは先に確認した通り、本来「意図」したものしか映らない(と思われている)形態である。と、同時に、映画は偶然性が不可避に入り込まざるを得ない形態である(と同時に物語映画はその偶然への視線を排除しようとして発展したともいえるがここでは深入りしない)。であれば、映画における偶然性より、絵画などの記号的表現――意図しなければ偶然が入り込まないと(一般に)思われているもの――における意図せざる効果を考えた方が、類推の妥当性があるだろう。シュルレアリスムやダダイズム、アクション・ペインティングなど多数の先例が発見できるだろう。
Vガンダムの制作プロセスを分析する際、我々は従来の〈作者〉概念の限界に直面する。本作品における攪乱の効果は、単一の制作主体による意図的な設計を超越し、複数主体の協働による創発的な現象として理解される必要がある。
4.2 共同制作
アニメーションは、監督以下階層構造で制作される集団的芸術である。Vガンダムにおいても、富野由悠季監督作品として〈作者〉としての「富野由悠季」が名指され、富野由悠季の「意図」のコントロールとしての「作品」という理解が一般的である。
しかし、実際の制作プロセスにおいては、各分業をすべて「富野由悠季」の「意図」でコントロールすることは不可能である。「作者」に無数の主体が入り込む状況は、他の商業アニメとも共通する現象である。それでは、なぜVガンダムにおいて特に攪乱の効果が顕著に現れるのか。
この問いに対する答えは、二つの可能性に分かれる。第一に【偶然説】、すなわち「たまたま」そのように出来上がっただけであり、一般的な統制の限界の結果であるという説明である。第二に【「意図」説】、すなわち「そのように」作り上げたのであり、みずから統制以上の無数の主体を求めた結果であるという説明である。
通常はアニメの制作過程の集団性がひとつの映像作品として提示されることで隠蔽されているが、Vガンダムにおいては複数主体の前景化が生じている。〈作者〉の「意図」の範囲を判断しかねる意識の強まりが、視聴者の認知において「攪乱」を自律させる。
この自律化により、富野由悠季を含む各製作者の意図は、もはやその達成度の評価などの必要がない段階に到達する。特権的な〈作者〉の本質的解体が生じ、製作者各々にすら関係をなくす状況が出現する。この状況は、デュシャンや荒川+ギンズの〈作者〉観との接続点を提供する。
共同制作としての「作品」という概念により、カテジナの「どうしようもなさ」は、協働制作によって生成される(潜在的な)制作/受容様式への視聴者の戸惑いとして理解できる。カテジナの存在は、攪乱の中にあって唯一の明確な生存者として、この戸惑いを象徴的に表現している。
「共同制作」――単一意志の制作でもなく、必然的な偶然の介入による制作でもないもの――の性質を利用して認知の攪乱(判断不可能性の創出)を「意図的に」試みた例として、荒川修作+マドリン・ギンズの実践が参照される。荒川+ギンズの〈作者〉観は、アニメと制作主体数と分業バランスが異なれど、相互浸透性(各制作者の意図が相互に影響し合い最終的に誰の意図とも言えない効果を生む状態)を担保している。当然、絵画や建築、言語表現といった分野での荒川修作+マドリン・ギンズの仕事とアニメでの認知体験における攪乱は慎重に区別する必要がある、ここでは、意図的な認知の攪乱という点での類推にとどめる[xxii]。しかし、絵画と言語の関係から建築という三次元的な影響へ関心を移行した荒川修作の仕事はアニメの視覚と言語の同時進行性を考えるうえで有効になるだろう。
この〈作者〉概念の変換は、Vガンダムにおける攪乱の理論的背景を提供する。作品は、もはや単一の〈作者〉による表現ではなく、複数の〈作者〉間の接続によって生成される動的なプロセスとして理解される。視聴者もまた、この〈作者〉のネットワークの一部として機能する。デュシャンとの関連で言えば、アンフランマスと『階段を降りる裸体No.2』のような「ある特定の事物の運動が二次元に投影される事態」と酷似した現象が、Vガンダムにおいても生じている。モビルスーツの運動、キャラクターの生死、視聴者の認知プロセスが、すべて二次元の画面上に投影され、相互に影響し合う構造とも似ている[xxiii] [xxiv]。
この「表現の過剰」は、Vガンダム終盤の状況を理解する鍵となる。作品内のあらゆる要素(キャラクター、モビルスーツ、背景、音響)が、すでに何らかの表現として機能しており、それらが相互に影響し合って新たな意味を生成し続ける。視聴者は、この表現の過剰の中で、安定した意味を確定することができず、常に流動的な解釈を強いられる。視聴者は、作品を見る主体であると同時に、作品によって見られ、形成される客体でもある。この反転により、従来の制作者/受容者の固定的な関係は解体され、動的な相互作用の場が形成される。Vガンダム」の制作プロセスにおいて、大量生産物としての「アニメ」のメディウム(セル画など)において、瞬間的に立ち現れる〈作者〉の群れ(監督、演出、作画、音響、そして視聴者)がいかにして束ねられ、作品としての同一性を生じさせるのか。この問いに対する答えは、従来の単一〈作者〉モデルあるいは映画の監督=〈作者〉モデルでは提供できない。
荒川+ギンズは、共同制作について次のように述べている。「共同制作というコンテクストにおいて、その共同制作者は、アラカワが部分的にしろ全体的にしろ、正しいか間違っているかを証明することによって、手を貸すのだ」[xxv]。
この証明プロセスは、Vガンダムにおける視聴者の役割をある程度説明するだろう。視聴者は、作品の幻視描写が「正しい」(作品内現実)か「間違っている」(単なる演出)かを判断しようと試みることで、作品の共同制作者として機能する。しかし、この判断そのものが不可能であることが明らかになることで、新たな制作/受容様式が要求される。
再びVガンダムが特権的〈作者〉に還元されないまま「意図的に」攪乱を試みた可能性に立ち返ると、カテジナが「意図的に」生き延びたことの意味が明確になる。映像表現、制作体制レベルでの視聴者の混乱後の生存として、カテジナの存在は特別な意味を持つ。
ウーイッグという「廃墟になった故郷」への盲目での帰還は、強いメタファー性を持つ。廃墟(もはや意味をもたないもの)としての「機動戦士Vガンダム」への回帰ゆえに、カテジナの生存が意味を帯びる。この生存は、根源的な「どうしようもなさ」を体現している。
カテジナの「どうしようもなさ」は、従来の〈作者〉概念や制作/受容の枠組みでは説明できない状況への応答として理解できる。彼女の盲目は、明確な視覚的判断を不可能にする状態の象徴であり、同時に新たな知覚様式への移行の可能性を示唆している。故郷への帰還は、攪乱された認識枠組みからの一時的な退避ではなく、攪乱を経験した後の新たな出発点としての意味を持つ。
このように、Vガンダムにおける協働制作は、従来の芸術制作の枠組みを超越した新たな創造様式の可能性を示している。それは、単一の〈作者〉による統制を放棄し、複数主体の相互作用による創発的な効果を積極的に活用する制作方法である。この方法により、作品は制作者の意図を超越し、視聴者との協働によって継続的に生成される動的な存在となる。
結論
本論では、「機動戦士Vガンダム」における身体性と生死の攪乱を、カテジナ・ルースの特異性を通して分析してきた。この分析を通して明らかになったのは、Vガンダムが単なるアニメーション作品を超えて、アニメーション表象そのものの可能性と限界を問う、メタ批評的な機能を果たしているということである。
カテジナ・ルースは俗に論じられる「悪女」でも「まとも」でも二元論的な立ち位置を占めるのではなく、むしろそのような二元論の判断不可能性にこそ存在しているといえる。
[i] 大塚英志談「ミッキーマウスなど、アメリカのアニメをみているとキャラクターが崖から落ちた時に、地面にグチャンとめり込んで、ピョコンと地上に出た時には、包帯や松葉杖はついているけれども、三歩歩いたら包帯も松葉杖も取れてしまう。殴ったら顔がへこむ。ローラーに轢かれると紙のようにぺしゃんこになって、ペラペラと飛ぶんだけど、すぐ元の身体に戻ってしまう。実際にローラーに轢かれたら、当然、肉も骨もグチャグチャになってしまうはずですよね。でも、ならない。そういう身体の描かれかたを「身体性を持たない」とぼくは形容します」大塚英志/大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川書店、2005年、59-60頁
[ii] 三輪健太郎『マンガと映画――コマと時間の理論』NTT出版、2014年、185頁
[iii] 「ミッキーマウス的な非リアリズムで描かれたキャラクターに、リアルに傷つき、死にゆく身体を与えた瞬間、手塚のまんがは、戦前・戦時下のまんがから決定的な変容を遂げたのである。」大塚英志『アトムの命題』徳間書店、2003年、158頁
[iv] 大塚/大澤、前掲『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』141-142頁
[v] 「大塚の議論においては「記号-非リアリズム」と「写実-リアリズム」とは対置されるべきものであり、だからこそ「記号的キャラクター」に「傷つく身体」を与えることは「矛盾」とされるほかないのである。つまり、大塚的な議論の枠組みにおいては、マンガにおけるリアリズムの獲得は、「記号的(非リアリズム的)キャラクター」に「身体性(写実的リアリズム)」を与えるという、本来なら矛盾した営為によって成し遂げられたのだということになる。」三輪、前掲『マンガと映画――コマと時間の理論』190頁
[vi] 伊藤、前掲『テヅカ・イズ・デッド』95頁
[vii] 同前、97頁
[viii] 「耳男の「死」が衝撃たりえたのは、その「死」が「もっともらしかった」からではなく、キャラが「かわいかった」からである。その「かわいさ」とは、まさにキャラの持つ「プロトキャラクター性」の強度に他ならない。 このラストシーンで、確かに「死」は描かれる。だが、この場面で耳男/ミミ―/ルンペンのこどもの三様が描かれるということ、すなわちここでの耳男の描写が、身体性を欠いているということに気がつかなければならない。ここでは、キャラが単純な線画で構成されていることが逆手に取られている。」同前、134-135頁
[ix] 「伊藤によれば、マンガのキャラクターは、簡単な線画を基本とする「キャラ」(記号的身体)の持つ実在感にこそ支えられている。しかし、それを基盤としながらも、「キャラ」が本来記号的なものでしかなかったことを隠蔽し、あたかも「身体」の表象であるかのように見せかけることで「キャラクター」が成立する。」三輪、前掲『マンガと映画――コマと時間の理論』193頁
[x] 同前、195頁
[xi] 「「アニメーション」では、キャラクターも風景も、空の色に至るまで全部が記号なんですよ。記号化しなければ集団の作業の中で使えないし、一人二人秀れた絵描きがいても、映画にはならないんです。」押井守/四方田犬彦「入りにくく抜け出しにくい押井ワールドの謎を解明する」、植草信和編『押井守全仕事』キネマ旬報社、1996年、112頁
[xii] 「映画の発明を導き、可能にした神話は、写真から蓄音機に至るまでの、十九世紀に日の目を見た現実の器械的な再現技術のすべてを漠然としながら支配していたある神話の、完成された姿に他ならない。それは完全なリアリズムという神話であり、世界をその姿通りに、芸術家による解釈の自由という仮説や時間の不可逆性などの重荷を背負っていない映像で、再創造することができるとする神話である。」バザン、アンドレ『小海英二翻訳撰集 第4巻 映画とは何か』小海英二訳、丸善、2008年、197頁、加えて以下のように記述している「実際バロック絵画から写真への移行における本質的な現象は、模倣の単なる物理的な完全さにあるのではなく(色彩の模倣という点では、写真はまだ当分絵画より劣ったままだろう)、写真が人間を締め出したメカニックな再現であることによって、われわれの錯覚への欲求が完全に満足されるという、一つの心理学的事実にあるのである。解決は結果の中にではなく、その結果の生じてくる過程の中にあったのだった。」(同前、188頁)
[xiii] ウォーレン、ピーター『映画における記号と意味』岩本憲児訳、フィルムアート社、1975年、157頁
[xiv] 「バザンが特定の映画の良し悪しを判断することについて「つまり、確かにあらゆる映画は写真の特性を前提しているのだが、最終的に達成される「リアリズム」は、そのような特性がどのようなスタイルのもとで発揮されるか、によって様々に変化しうる(したがって様々な種類の「リアリズム」がありうる)と考えられる。 一つだけ例を挙げよう。ロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』(一九五一)を締めくくるショット――十字架の映像――である。このショットにおいて、白地に浮き上がる黒い十字架は、木やその他の物質で作られて現実の三次元空間に存在するものというより、絵画的で極めて抽象的なイメージとして撮られている。その意味で、これは写実映像が本来捉えるべき物質的現実を欠いたイメージである。」三輪、前掲『マンガと映画――コマと時間の理論』126頁)加えて三輪は以下のように指摘する「「映画の映像は「写真」の連続的な映写によって生み出されるが、写真を生み出すカメラという光学機器は、その原理をカメラ・オブスクーラ――「線遠近法」に基づいて絵を描くための装置としても用いられた――から直接的に受け継いでおり、それは映画前史が語られる際の一つの定型である。」」(同前、181-182頁)
[xv] 「「音響の働きによって目下フレームに捉えられている光景がそれ自体で完結したタブローではないこと、画面外にも同質の空間が広がっていることが強調される。」」三輪、前掲『マンガと映画――コマと時間の理論』204頁
[xvi] 「「今後の漫画映画」から、色を取り去ることはできない。それは映像が光の運動だからであり、光の運動は色だからである。このことはアニメーティングによってもまた不可避的である。写真による運動の分析は、単純な線画への還元を困難にする。なぜなら運動する形は色と光だからである。事物の運動、それは色の運動である。極彩色漫画の快感は、その根底に、かかる客観的事実のより正確な再現があることに基づいている。」今村太平『漫画映画論』徳間書店、2005年、108頁
[xvii] 「アメリカの商業アニメーションにおける表現技術は、一九三〇年代にディズニーを先頭にして急激に進み、一九三七年の「白雪姫」の頃には、もはや人間キャラクターをねじ伏せて使いこなすだけの表現力を手に入れている。つまり、物語を描くために必要なリアリズムを備えた「道具」としてのアニメーション技術が、この頃にいったん確立されたといってもいいだろう。」(サカキバラ・ゴウ「浮遊するイメージとキャラクター――近代メディアにおけるまんが・アニメの位置づけ」『新現実』四号、太田出版、2007年、262頁)
[xviii] 宇野常寛『母性のディストピア』集英社、2017年
[xix] メルロ、ポンティ『知覚の現象学1』竹内芳郎、みすず書房、1967
[xx] 「身体性のあるレベルを意味し、生身の身体と建築的環境との間にあり、両者の媒介ともなっている。人間の場合、環境との関連のもとで身体を位置づけるために、おのずと周囲と整合的に行為している身体性のレベルがあり、そのように働いている身体性が、建築する身体と呼ばれる。この身体性の働きは、ランディング・サイトを分散させ、配列し、選択することであり、それじたいは場所を占めることの可能性として、発見的装置としても機能する。この身体性のレベルを単独で取り出すことはできないが、ある種の作動し続ける働きを意味する。建築する身体というように、動詞的に表現する場合、動きの中に自動詞的な要素がふくまれていることを暗に示している。歩く身体、呼吸する身体と同様、自動詞的に建築する身体をふくませるためである。通常こうした表現は、自己組織化、オートポイエーシスでは、再帰動詞で表される。その場合、みずからを建築する身体の意味である。」荒川修作+マドリン・ギンズ『建築する身体 人間を越えていくために』河本英夫訳、春秋社、2008年、216頁
[xxi] 中井正一「映画のもつ文法」、『中井正一全集 第三巻 現代芸術の空間』美術出版社、1964年、207-208頁
[xxii] 山本浩貴の〈作者〉観の要約「荒川にとって、事物は、常にもはや表現・制作されたものとしてあり、その同一性は、常になんらかの表現主体の知覚形式にさらされた結果、成立すると考えられていた。そして知覚形式=遠近法=〈作者〉=〈空間の意味〉が埋め込まれた事物――言語をその最たるものとする――を、変換関係をめぐるダイアグラムとしてレイアウトすることによって、それによって、それに対する身体の様々な抵抗、抽象的な法則性を検分し、さらにはその分解を目指していたのである。求められるのは、〈作者〉間の接続が容易に生じる場所としての個体の自己同一性を組み換え、物質的死の先にも制作が持続するという事態、すなわち不死をもたらすことである。」(山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』フィルムアート社、2024年、271頁)
[xxiii] 「あらゆる事物がすでに言葉であること。それは決して表層的な指示関係だけに薄く潰れたものとして世界を捉えることを意味しない。そうではなく、あらゆるものが先んじて何らかのかたちで表現されている、表現の過剰に氾濫する場として世界を捉えることを意味していた」(同前、336頁)、「〈作者〉とは、すなわちデュシャンが大量生産物に見出したような、毎秒失われていく同一性に伴う《空間の意味》である。ならば「作者が死に続けるなら、誰がそれを新たに作るのか?」という問いは、事物の知覚に伴い瞬間的に立ち現れる〈作者〉の群れがいかにして束ねられ、接着し、同一性を生じさせていくのか、その内部に働く法則性とはいかなるものか、といった問いへと変換できます。」(同前、340頁)
[xxiv] 「それまで見る者に利用できていた場所のどんなものとも質的に異なる場所は、知覚が物質的にそれと拮抗するものを見いだすところで形成される。それらは現象的には反転が可能な場所である。見るものはそれ自体見られるものとなるだろう。それはもはや、芸術作品を最終的に仕上げるのが見る者だという問題ではなく、芸術作品が見る者の最終的なつくり手になるという問題となるだろう。問題のプロセスは、つねに反転できる必然の可能性を帯びていなければならない。」(荒川修作+マドリン・ギンズ「エピナール・プロジェクト制作ノート」、『荒川修作 宮川淳へ展』東京現代美術館、1990年、26頁)
[xxv] 「共同制作というコンテクストにおいて、その共同制作者は、アラカワが部分的にしろ全体的にしろ、正しいか間違っているかを証明することによって、手を貸すのだ。」(荒川修作+マドリン・ギンズ『死なないために』三浦雅士訳、リブロポート、1988年、33頁)





