くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/21

藤井さんへ

 

 「胎界主」を第一部まで読み終えたのですが、なかなか難物ですね……。よく、「生体金庫」まで読んでと聞くので、とりあえず第二部を読み終えれば消化しやすくなるのかもしれませんが、ちょっと自分にはキャパオーバーかもしれません。正直、「胎界主」をまったくわかってないのですが、「ストーリー自体は非常にわかりやすい」と感じる気持ちはわかるかもしれません。「胎界主」や「アカーシャ球体」、「いのち」、「たましい」……などを、わからないまま読むことは「翻訳」に他ならず、胎界主を読む営み自体が、極めて胎界主であり、その階層構造は、「物語」に限らず人の営み全般にまで広がって、それも胎界主かもしれない……。というより、本当にわからなかったので、そのような寓話の次元に「翻訳」してしまった感じはありますが。裾野の広さは感じるのですが、何か原液(「原典」と呼ぶべきか)を垂れ流されているような読み心地で、わからないまま読み進めていると、「原典」の描写が、例えば「胎界主」や「稀男」の名において機能し、象徴化されるような感覚がありました。雰囲気で個々のシーンを読み流していると、面白い気がしたりもするのですが、その「面白い」の力点の置き方を掴めないままというのが現状です。なんとなく、エモそうとかかっこよさそうとかギャグそうとか、浅い把握しかできませんでした。一方、例えばwikiとかを見て、キャラや用語の解像度を高めて読めば、「胎界主」を読めるようになるかも、という感覚はあまりありません。「伏線」とか「考察」とかは、時系列に沿った情報提示の方法から読解を探る方法だと思うのですが、「胎界主」において描写されるものは、ある本質をその状況においてどのように捉えるか、という方法をとっているように見えます。だからエピソード単位でも因果で把握されるものではないため、wikiで辞書的に用語の意味を聞いても理解には繋がらず(提示される情報は因果=ストーリーとして提示される以前の本質だから)読む体験の中でしか理解は得られないように感じます。誤解を恐れずに言えば、何が面白いのかわからない。そのわからなさに漂う時間が必要かもしれません。

 クッキー☆の件については失礼して申し訳ないです。ご放念下さい。「面白くない人」に厳しくなってしまうのは自分もそうで、自虐もありますが、オタクを粛正してやりたい、という気分が抜けません。以前、自分は「つとむ会」というオタクサークルに属していました(もっとも「つとむ会」のDiscordサーバーはまだ残っているし、そこに自分のアカウントも所属したままなのですが)。

 

https://tsutomu-kai.memo.wiki/d/%b5%dc%ba%ea%bb%d8%c6%b3%bc%d4%a4%cb%a4%e8%a4%eb%b3%b5%c0%e2

 

 昔、フォロワーだった、「ふわぽへ」という方の書いた「つとむ会」の理念です。「つとむ会」はけっきょく、「ふわぽへ」がツイッター含むほぼ全てのアカウントを削除、放置してネット上から消え、残った「つとむ会」メンバーで一冊の同人誌を出した後、自然消滅しました。自分は「つとむ会」メンバーと反りが合わず、ほとんど傍観しているだけでしたが、ここでの「おたく」像にはまだ未練がある気がします。「つとむ会」が失敗したのは、けっきょくつまらない、非生産的な社交に淫したからだと思えます。しかし、「つとむ会」とは異なる方法を得るのは難しい。面白くないものへの距離感は、自分はまだわかりません。少なくとも自分にとっては、底辺youtuberを視聴することではなかった。

 当たり前ですが、「おたく」であるとか、小説を書いているとか、それだけで気が合うわけじゃないですね。別にそこから交友を広げるのも悪いことではありませんが、自分に社交は難しいです。好きなものを好きなように書いて、身内で楽しむ感じは無理かな、とBFCとかに応募して確信してしまいました。取れる方法は、程よい孤独を楽しむことしかないのかもしれない。

 例えば他の人にも、サドのテクストについて話したのですが、幼稚なくせに頭でっかちで、自分勝手で被害者がかわいそうだから嫌い、と率直に言われました。やはり、自分はそのように返答してくれるコミュニケーションを求めている。共感や連帯も必要だと思いますが、実直な「批評」を欲している。大学のゼミに入ったとき、小中高のクラスと異なり、こんなに楽で楽しいコミュニケーションがあるのか、と感動しました。自分が人の輪に入るためには、何かゼミのような生産性が必要なのかもしれません。粛正してやる、と叫ぶだけでは、けっきょく自分が苦しいだけですね。

 しかし、こういう自分のコミュニケーションのスタンスが人にストレスを与えるのも事実で、それを辛く感じます。アルバイト先の塾で、子どもたちが自分の言葉に威圧されてしまっているのを感じますし、学生のとき、パワハラ的だと指摘されてトラブルが起きたことも数え切れない。藤井さんが、手紙が面白くないと仰ったのも、やはり自分の、議論の体の、尋問的な部分のせいではと思っています。だから、前言を撤回するようですが、本当に必要なのは「つとむ会」のような他愛のないコミュニケーションなのかもしれません。共感や知識の共有で成り立つ不毛さや弱さを受け入れることかもしれません。「おたく」としての生存戦略はそれしかないように思えます。

往復書簡 2024/2/18

鷲羽さんへ

 

 まずは伊勢田勝行監督の映像をご視聴して貰ってありがとうございます。「むき出しの他者の生の片鱗に触れたような感覚」というのは、かなりわかります。自分が監督の映像で生じる「畏れ」は、自分の「アニメを見ていた記憶」をかき乱すから生じると思っていましたが、もっと根源的に「生」と呼応しているのかもしれません。自分も三戸なつめのMVを見直したのですが、すごく胸が締めつけられるような切実さというか、「哀しみ」とは違いますが、泣いてしまいたい、泣いて終わりにしたい衝動に駆られました。それはやはり、一人の「生」の業を見せつけられているからなのでしょうか。

 自分は集合写真が不気味だと思ったことはないのですが、おぞましいとは時々感じてしまう。例えばそれは仮面ライダーのベルトを巻いて変身ポーズを決めたオタクたちであったり、ハッテンビーチでのゲイの集会だったり、JMoF(ケモノのコンベンション)の着ぐるみたちであったり、宝塚の入学式だったり……。これは、均一に自己カテゴライズされた人々の集まりが、一人ひとりの「生」を隠蔽しているように見えるからかもしれません。クラスの集合写真でも似たような気持ちになります。というのも、人の顔や自分の顔を区別するのが苦手で、クラス写真のどこに自分がいるのかわからない。人が、カタログの一部になって、自分もその一員であることが怖いのかもしれない。卒業アルバムに怖さは感じないので、やはり、大勢の中での均一さ、というのがポイントかもしれません。

 少し前、テレビを見ていたら、物干し竿を家の一階から二階へ、ぶつけないようにして運ぶゲームをしていました。すごくどうでもいい番組なのですが、それゆえに、この芸人やアイドルにとって、物干し竿を一階から二階へ運ぶ行為は人生においてどんな位置を持つのだろうと思ってしまいました。バラエティの仕事をしたい、と思っても、その仕事の中に、確実に物干し竿を運ぶことは想定されていないはずです。でも、その人の人生の一部として、物干し竿を運ぶという不毛な行為を繰り広げているという事実が、何か恐ろしかった。極論、労働とか生存とかひっくるめて、物干し竿を運ぶ行為と大差ないのかもしれないと思わせるような。

 藤井佯さんから頂いたお手紙の中で、目[mé]という展示のことを教えて貰いました。これも、「不毛な労働」を見せつけるものでした(いや、目[mé]はもう少し大きな視野でみすえていそうですが)。人がある場において役割の一部になることを露呈させるのは、「生」というパースペクティヴでも同様であると知るようで怖いです。以前、秋吉良人の「サド―切断と衝突の哲学」という本を読みました。そこでは、サドのテクストを読み直し、強姦や拷問といった悪徳が労働として行為されていることを指摘していました。サドにおいては「travail」の意味である「性行為」と「労働」が実践レベルで意図的に混同されている。論点は変わってしまうのですが、サドの労働性は、ギロチンによる機械的で平等な殺人装置を想起したし、あるいはホロコーストを思い出しました。「死」が絶対的に平等であるから、その次元で考えれば「生」もただ「死」に向かって等しく均一にあるだけなのかもしれない。また少し前、ツイッターで、以下のツイートを見かけました。

「裏金問題に際して「なぜ政治家は神経が図太いのか」と言われてるのをよく見るけど「政治家は下手すると僧侶より人の葬式に出てるので、楽観的に見える態度も最後は”死という究極の公平”に導かれると言う思いからくるのではないか」という松野博一の怖すぎる答えがあり笑ってしまう」

 このニヒリズムは、国政と物干し竿を運ぶこととの区別を嘲笑する気がします。これに対抗する手段は、「信仰」しかないように思えます。別に特定の宗教を信じるわけではなく、価値体系が在ると信じることです。と言いつつ宗教の話になってしまいますが、例えばモーセ十戒は、守れば救われて破れば罰せられるものではなく、神と人が対話する場を構築する上での前提だと並木浩一が述べていました。つまり、自らが信仰や価値判断や倫理を構築する前提として、提示されたものだということです。個々の人間について述べる人権思想が一神教の下で生まれたのは自然なことだと思えました。

 自分が安直に「大衆」と述べてしまうのは、個々の人間を見ることを避けているからに他ならないと思います。自分は、「窓の灯の向こうの人生ひとつひとつに向き合」うことは、とても難しい。手の届く範囲に限定してしまっても、そこには自分すら入らないかもしれない。鬱病になってからずっとクリニックに通っているのですが、カウンセリングではなく、心身の症状に応じてただ薬を処方されるという空間が心地良い。素朴に自分の心は、脳内物質の作用に過ぎないと切り捨てるのは安心します。

 「虚無への供物」を代表に、アンチミステリと呼ばれる多くが、価値判断の話になるのは自然なことだと思いました。エラリー・クイーンホロコーストの小説として読むなら、ホロコーストというニヒリズムから一人の尊厳を取り上げて信仰するなら、それはミステリという枠組みのべき論を越えて、自らの価値体系と対話することかもしれません。そう考えると、ミステリに限らずエンターテイメント(小説)は全て、ストーリー=因果と論理に仮託して、信仰を共有するシステムなのかもしれない。藤井さんへのお手紙で自分は、芸術とは、価値が創発でも止揚でもなく提示されることが重要だと述べました。そしてそれは露悪的な相対主義に陥るかもしれないと。これは可能性ではなく、やはり自分は露悪的な相対主義に溺れたいのかもしれません。ストーリーという価値判断の氾濫が恐ろしいのかもしれません。孤独と虚無の気持ちよさを破壊されるのが怖く、今、現実で行われている虐殺さえ無関心でいられてしまう。

 ストーリーに還元される怖さは、自分に限らない気はします。例えばハリウッド的な映画がつまらなかったとき、よく「ポリコレ」を遡上に上げる人を見ますが、その「ポリコレ」への反発は、映画内外を全てストーリー化してしまうことの反発ではないでしょうか。これは楽観主義ではなく、ほとんどの人は民族や人種差別はよくないと思うし、セクシャルマイノリティは好きにしたらいいし、男女同権は当然だし、障害者を愚弄したりしない。やるのは、たいていそれが「悪」だとわかっているから、逆説的にそのような倫理を内面化している。だけど、そのような現代に生まれた「信仰」がストーリーの形で普遍なものとしたとき、「信仰」を強要されるような嫌さを感じるのではないか。直接、宗教勧誘と同じ嫌悪だと思います。

 「HUGっと!プリキュア」はその点で興味深い作品です。プリキュアはシリーズが続く中で、極めて保守と言っていい、女児であるべき幻想へのビルドゥングスロマンに収まりました。それに対して、「HUGっと!プリキュア」はシスヘテロ中心主義から逸脱してみせたり、「少女」ではなく「母」としてのエンパワメントであったり、ざっくり乱暴に言うと、「ポリコレ」な要素が多いのですが、それはプリキュアのベースの保守的無害な牧歌さと反発し、異様に薄っぺらで説教臭く見えました。このバランスを取るために「HUGっと!プリキュア」がとった方法は、全人類をプリキュアにすることでした。比喩ではなく、展開として、本当に全人類がプリキュアになってしまう。おぞましいファシズムだと思いました。全て人類の「信仰」が「プリキュア」であれば、軋轢もイデオロギー闘争も存在しない。それは当然、個々の人間の顔を奪うことと同義である。「ポリコレ」への反発心は、大げさかもしれませんが、ファシズムへの恐怖かもしれない。

 ファシズムと戦う手段は、まさしく、「書くことをもっと書き手じしんの手に取り戻す」だと思います。そのために、個々の人間と、自分自身の顔を見つめなければならなく感じる。ここまで書いて、集合写真に感じるおぞましさがファシズムの察知かもしれないと思いました。一つのストーリーに我々が回収される引力が、集合写真にあるのかもしれません。

 ストーリーへの欲望と反発で、「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」を少し思い出したのですが、あれは何なんでしょう?

 「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」は理解できます。あれはボーイミーツガールという軸を擬態させた自己批評であり自己破壊であると。コンテクストが「交響詩篇エウレカセブン」へのアイロニーであるとわかる。だけど、「EUREKA」は依拠しているコンテクストがさっぱりわからない。例えば、ラストシーンは「逆襲のシャア」じゃん、と指摘するのは容易い。では、なぜ「逆襲のシャア」なのか考えると、理屈はあるはずなのに見えない。ハイエボリューション自体、全てシャドーボクシング的な作品に見えます。何か「エウレカセブン」と戦い続けているのに、「エウレカセブン」がわからない……。「ANEMONE」は素直に(?)「エウレカセブン」(?)と戦う話でわかりやすい(?)と思ったのですが……。「EUREKA」は、「エウレカセブン」に回収されることの愛憎、欲望と反発があるように見えるのです。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は、時間が経ってしまえば、「エヴァ」に回収されることなんてどうでもいい、という身も蓋もない結論がありました。一方で「EUREKA」は囚われていそうだけど逸脱していそうだし、その沸点もわからないから、映画との距離感を掴めない。面白いとは思ったのですが、そのポイントもやはり不明で、すごく不思議な映画でした。「エウレカセブン」ファンじゃないからわからないのかも、と思ったので、何と言うか、どのような距離感でご覧になったのかお聞きできますか? どう向き合う映画なのか、そもそも「エウレカセブン」とどのように向き合うのか、自分ではハテナマークでいっぱいです。

往復書簡 2024/2/17

藤井さんへ

 

 目[mé]の展示についてのnoteを読みましたが、たいへん興味深かったです。このように、枠組みがぐらぐらする体験に(読んだだけですが)、素朴に感動してしまいます。思うに、自分が「他者」と呼ぶのは、単にぐらぐらさせてくれるもの、という程度の意味だと思います。藤井さんは、「対峙」しているが回路が開ききっていない、と表現されていて、自分の中の確信を文章にすることの比重がかなり重いとお見受けしました。故郷喪失もやはり、自分の確信についての話ですよね。自分もやはり、真実を書きたいと思っているのですが、「確信」は違うのかもしれないと思いました。何かその「確信」を突き崩すものを探している気がします。読者にしても、「正しく読んでくれる読者」はとても嬉しいものですが、同時に自分は、「決定的に馬鹿な読者」を求めている。例えば、ナボコフは「正しく読んでくれる読者」以外相手にしていない感じがあります。ナボコフが全然わからない自分からすると(本当に手つきがわからない)、愚かさを責められている気持ちになります。「作者」が提示した空間内で、創造的でクリティカルに読むことはすごく難しいと、ナボコフを読むと痛感させられます。

 遡って、自分が価値を重く置く、「ぐらぐらすること」はすなわち、「『私』と違う価値が提示されること」だと思いました。価値が創発されたり、止揚されるのではなく、ただ、露骨で無骨に提示されること自体に、芸術というものの価値を感じます。だからその意味で、自分の小説は、「自分の価値を提示すること」として機能してしまい、結果として他者を指向しているかもしれません。

 泉信之の「漫画をめぐる冒険」で、「スクールランブル」を論じていて、それは自分の「スクールランブル」の価値がぐらぐらする快楽がありました。「スクールランブル」は他愛のないラブコメなのですが、泉は、コマごとに微細な絵柄の変化があり、それが様々なキャラ固有の心象の反映であると指摘しました。つまり、「スクールランブル」が、気持ちのすれ違いを描くラブコメというものを、多数の価値判断を同じページ内に同居させ、「提示」する方法を発見したものであるゆえに優れていると。その指摘を見てから、「スクールランブル」が豊かなものであるように受け入れられました(もともと小気味よいギャグで楽しいマンガなのですが)。これも、価値が創発でも止揚でもなく、ただ提示される感動があると思い出したのです。

 しかし、その「単なる列挙」は、露悪的な相対主義に陥る可能性もあるかもしれません。「どうでもいい」ことは祝福かもしれませんが、全て「どうでもいい」というニヒリズムかもしれない。例えば、個人を中傷するようなネットミームに、どうでもよく感じている自分がいます。ニコニコなどで動画を見ているとき、淫夢クッキー☆ネタが用いられても、受け流しています。自分では「語録」に抵触する言及は絶対的に避けようとしている(逆説的に把握していることを告白しますが)のですが、動画やコメントを受け入れてしまっている。これは糾弾するつもりではないのですが、以前、藤井さんが廃墟に描かれたICGの落書きを「東方のアリス」だと誤認している人をさらすようなツイートをいいねしているのを見かけました。藤井さんが、クッキー☆のような悪趣味なコンテンツを面白がるとは、偏見ながらあまり思えなかったので、どのようなスタンスなのかお聞きしてもいいでしょうか?

 自分はやはり、淫夢的な悪趣味さを、黙認してしまう加害性を認めて、それを自認しているならいいやみたいに投げ出してしまいます。人間関係の煩いにイライラしながら、けっきょくゴシップを面白がっている。ゴシップのストレスにも耐え難くなってきて匿名掲示板のアプリなどを最近削除したのですが……。

 そこに、自己矛盾があります。価値観の異なる他者を求めながら、事実、それと接して、愚かだったり下品だったりすると、シャットアウトしてしまう。あらゆる愚民と向き合うのは物理的にも精神的にも不可能なので、仕方がないと妥協してしまうのも悪とは思いませんが、どうも欺瞞を感じます。

 エンターテイメントというものは、ストーリーやジャンルの文法みたいなルールに一致することを強く求められているので、ゲイジュツと不一致を示す場合が少なくないのはその通りだと思います。自分もSFは好きだと思うのですが、どうも「SF好き」と噛み合わない。これは早川書房の「バズリ方」が気に食わないだけな気もしますが。「SF」を他のジャンルに置き換えても同じで、オタクの身内ノリから疎外される気分は常にあります。それはやはりオタクが、そのジャンルが堅牢であることを願う意志が強いからではないでしょうか。究極、スタニスワフ・レムの「天の声」でSFは終わりで、「枯草熱」でミステリは終わりと主張されても、終わって構わないし、むしろ終わり続けていないジャンルは死んでいると思います。「ぐらぐらさせるもの」は文芸誌の審査員が言う「新しさ」にほとんど一致するかもしれません。

 保坂和志が、ポリシーとして猫をストーリーの小道具や心情のメタファーにしないようにしたのは、極めて正しく感じます。動物倫理とか、小説の方法以前に、世界と関わる態度として。ストーリーがつまらないというのは、全てを因果=自分の認識の内部に回収してしまう点ではないかと思います。だから、動物がただ在り、自分が愛すること以外には何もないとさえ思える。因果や理屈で駆動するのは、「知っている」からすごく気持ちがいい。だけど芸術というものは、その運動とは違うやり方を提示するものだと信じています。マルキ・ド・サドの「新ジュスティーヌ」に以下のセリフがあります。

「自然があたしの手にゆだねてくれた罪悪の凡庸さについて、たぶん、あたしはあなたよりもっと歯がゆい思いをしているわ。あたしたちの犯すあらゆる罪悪によって、傷つけられる者といったら、偶像と人間だけだわ。ところで、自然はちっとも傷つけられていないのよ。そして、あたしが何とかして傷つけてやりたいと思っているのは、この自然なのよ。あたしは自然の意図を妨害し、自然の運行を阻止し、星々の軌道を停止せしめ、空間にただよう天体を覆滅してやりたいわ。そして自然に役立つものを破壊し、自然を害うものを庇護し、自然を怒らせるものを築きあげ、一言でいえば、自然のつくったもののなかで自然を侮辱し、自然の偉大な効果のすべてを中止させてやりたいと思うのよ。でも、それはできない相談だわ。」

 自分が小説で試みたいことはこれかもしれません。サドと同様の方法を用いるという意味ではなく、「自然」に逆らいたい。以前、超越したいと書いたのとおそらく同じ意味です。

 そのために「自然」を観察しなければならないと感じています。これは単に犬を撫でたい気持ちの言い直しかもしれませんが。

往復書簡 2024/2/15

藤井さんへ

 

 「故郷喪失」が政治とアイデンティティの問題である、というのはその通りだと思います。というより、全ては、政治=社会とアイデンティティ=私の問題に還元できてしまうのかもしれません。だからこそ、そうではないもの=他者(?)を故郷喪失に見出したく思えます。

 自分は高校時代、演劇部で舞台監督をしていたのですが、率直に言って、演技や舞台というものがわかりません。ただ、舞台監督をしていて、舞台というものが極めて政治的=社会的に作られているのは実感しました。当たり前ですが、脚本を選ぶ段階、それ以前の演劇部を組織する段階から政治は始まっている(ここでの政治は意志の調停くらいの意味です)。その後の脚本の読み合わせ、演技プランの組み立て、大道具小道具の作成、音響、照明、全て政治です。個々の演出論には立ち入りませんが、一つの舞台として提示されるものに、上映中は観客、裏方のスタッフすら含めた多数の意志が渦巻いていることは同意頂けるのではないでしょうか。舞台の本質的なところは、視覚芸術である以上に、集団芸術であることにあるのではないでしょうか。

 以前、万有引力という劇団の「迷路と死海」という劇を見ました。見えない演劇をコンセプトにしていて、暗闇のシーンが多かったのですが、それ以上に、普段何を不可視化しているのか暴く演出が面白かった。例えば最初、観客席側に清掃の人がいました。自分含めて誰も気に留めていなかったその人は、いつの間にかゆっく掃除しながら舞台の上へ移動する。その段でも、気にしていない人は多く、上演前のお喋りを続けているひとは少なくなかった。開演時間前の音響が、気づかれないようにフェードアウトしていき、無音になったとき、ようやく皆が、舞台が始まっていることに気がつきました。また、休憩時間中の観客いじりのコーナーがありました。他愛のないお喋りで観客たちはくすくす笑って、くじ引きで観客の一人が舞台に上げられる。しかし、次第に、その観客も、「役者」の一人であるということがわかり、「舞台」の中に回収されてしまいます。完全に「役者」となってしまっても、その事態を把握できない観客もまた少なくなかった(マジのやつ? みたいなどよめきが聞こえた)。ベタなメタフィクション的技法と言われればそれまでですが、露骨に、舞台という制度が観客との政治によって成り立っていることを剥き出すものでした。加えて、当時はコロナ禍真っ只中でしたので、皆マスクをつけており、清掃の方も舞台に上がった観客も、マスクをつけていて、我々と見分けがつかなかった。そこを利用したトリック(?)で、見ているときはゾッとしました。

 一方で小説は書くのも読むのも(基本)一人です。だから、政治というのが作者と読者の間でのみ繰り広げられるように見える。その制度を利用するのがミステリかもしれません。自分の書く小説に他者がいない、と感じてしまうのはそのような政治性が要因ではないでしょうか。

 並木浩一と奥泉光の対談の、「旧約聖書がわかる本」を読んでいます。二人の対談形式で、対話を軸に旧約聖書を読んでいく本です。この本のコンセプトを最初に説明するにあたって、興味深いことが書いてありました。「『対話性』というのは、完結できない世界をお互いに認めること」であり、「対話性こそが歴史叙述に限らず、人間の知的営為の前提であり、同時に目標である」と。そして、ユダヤの神は絶対的な外部の他者であるがゆえに、「対話」、「契約」が成立すると。ありふれた事実ですが、本質だと思いました。他者はもちろん「他者」なのですが、実際に接すると、無関心を装ったり、自我の反射として眼差してしまうことがあります。もちろん全ての他者を「他者」として扱うのは、一人の矮小な自我では不可能に近いでしょうが……。ですが、その上で「他者」と関わらないといけない。

 「新世紀エヴァンゲリオン」では、自問自答の袋小路を、惣流・アスカ・ラングレーという「他者」が拒絶を示すことで、世界と自我の破滅と再生がなされます。先日お話したカテジナ・ルースも、主人公や世界を拒絶し、破滅と再生を導く他者だと考えています。自分が、他者がそこにいると感じるのは、やはり、拒絶という形で対話があるからではないか。

 伊藤計劃は、「監督が創造した世界の代弁者もしくは映画そのものの演出家という審級を与えられ」、「映画そのものを演出する映画内キャラクター。つまりは映画内における監督のキャラクター化」を、世界精神型悪役と呼びました。「機動警察パトレイバー2 the Movie」の柘植や、「ダークナイト」のジョーカーを例にしているのですが、この方法論は、監督が自らを他者化し、対話するプロセスだと思います。世界がこのように見える、というのを悪役に代弁させ、主人公に拒絶させる。胡乱なことを言えば、極めて一神教の思考に近く感じます。日本神話やギリシャ神話で、神は世界に内在する力で、「外部」ではない。ゆえに究極的な他者ではない。

 ただ、惣流・アスカ・ラングレーカテジナ・ルースを素朴に他者として消費するのは、ためらいがあります。二者とも男性からの客体化(主に恋愛関係において)を拒絶し、他者であろうとするのですが、そのような態度こそ「男性(制作者や視聴者を含む)」が願望を充足させるために用意した構図であり、それに無邪気にライドしている感覚があります。つまり、ギャルゲー的な女性の描写が願望充足のための他者である(=対話的ではない)程度には二者もそうなのではないかと思えるのです。

 「新世紀エヴァンゲリオン」の苛烈な拒絶を経てから制作された「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は他者としてヌルく、当時はさっぱりシラケていたのですが、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で真希波・マリ・イラストリアスという「どうでもいい」他者がなんとなく助けてくれて、一緒に現実へ帰還するラストは感銘を受けました。これまでの話をひっくり返すようですが、絶対的な他者を希望するのは、絶対的な自我の幻想の反転に過ぎない。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」そのものが、自我とか他者とか「エヴァ」とか、極めてどうでもよく(なってしまった)、そのどうでもよさこそ、祝福であり、他者を真に「他者」とすることではないかと思えました。

 とはいえ、けっきょくそのようなグラデーション的他者を受け入れるのも苦しいのかもしれません。「どこでも族」と「どこか族」の図式はエレガントですが、身も蓋もない結論は、その間のグラデーションを皆が模索するしかない。「追放もの」のような極端さはファンタジーですし(だから夢なのでしょうが)。

 「追放もの」に限らず、極端に単純化して、現実の埋め合わせをするフィクションはしょうもなく見えてしまいます。例えば自分がカフカを面白く読めるのは現実よりも「カフカ的現実」の方が強力に立ち上ってくるからではないかと思えます。アニメなども最近はさっぱり楽しめず、知ったパターンの組み合わせでオタクの現実逃避を推奨しているものばかりに思えて、げんなりします。と言いつつ、女児アニメを見て現実逃避しているのですが。

 それより魚を見たりするのが楽しいというのはわかります。生き物の良さもやはり、誤解を恐れずに言えば「どうでもよさ」な気がします。もちろん、愛するのですが、それに拒絶も応答もしない、と思いきや拒絶したり応答したりするテキトーさが癒やしになるのかもしれません。

往復書簡 2024/2/14

https://yo-fujii.parallel.jp/2024/02/13/post-1968/

藤井さんへ

 

 お返事ありがとうございます。お返事を頂いて、第一に決定的な思い違いをしていることに気がつきました。故郷の喪失を自認する、という点です。藤井さんが募集要項等で故郷喪失者であることの自認を重視しているのを知っていながら、理解していなかった。まず、体験として、故郷喪失者である、ということが真実であるわけですね(何を今更ともはやお怒りになるかもしれませんが……)。

 自分はそれを「条件」だと考えて、では「故郷」や「喪失」が何か考えていましたが、それ以前のプリミティブな確信でした。例えば性自認が、自分の言動から帰納法的に自認する以前に、これであると「わかる」ように(当然帰納法的な自認やクエスチョニングもありえましょうが)自らが「故郷喪失者」であり、そうでしかない「私」についての話なのだとようやくたどり着きました。藤井さんが、喪失/分断/虚無の区別に価値を感じないのも頷けました。「故郷喪失者」であることはアイデンティティの一部であり、言語化しえない(する必要もない)と了解しました。

 なぜ自分が喪失の認識について考えていたのか、自問すると、それは逃避ではないかと思いました。自身が故郷喪失者である、という確信を、最初はあったと思います。しかし、「故郷喪失者」であると認めるのは、自己憐憫のようで、惨めに感じたのかもしれません。だから、論をもて遊び、抽象化し、一般化することで、自分の境遇や気持ちが、単なる法則で、ちっぽけなものに過ぎないと慰めるしかなかったのだと思います。例えば占いは人を類型化し、人生を記号操作に費やしますが、それが救いであることもある。方程式を変形するような作業として、自分の思考の流れをシンプルに操作することは、楽で居心地がよかった。これは自分が論理的な人間である、というアピールではなく、むしろ逆で、感情的に身体を機械にしようとしている。

 ですが、言葉以前の「啓示」、「運命」みたいなものを、あまり直観することができません。カガク的に言えば、感情のメタ認知機能が弱いのかもしれない。鬱病の診断を受けたのも、心が苦しく受診したのではなく、不眠だの嘔吐だの身体の異常から推理してメンタルの不調に行き着いたからに過ぎませんでした。これを念頭においた上で、直観した「故郷喪失」を再び見出さなければならないと感じました。

 自身をカテゴライズする安寧を少し許すなら、MBTIにおいて、自分はINTJらしいです。その特性を踏まえてどのように認知機能をよりよく扱えばいいのか調べましたが、「内向的直観」が主機能であるから「複数の事象や現象、概念の共通性や関連性を捉え、一つの象徴的なイメージに集約する」ことに長けているらしい……。要するに最初にお送りしたお手紙と同じことをやるのかもしれません。色々と袋小路な気分になりました。

 直観の感情的な分析が苦手だと割り切れば、楽ですが、やはり自己カウンセリング的に自分の感情を見つめ直さなければならないと思っています。

 というのも、自分が書く小説に最近行き詰まりを感じているからです。意志や意味がおぞましく、そうではない何かを小説という運動の中から掴みたいのですが、直観した言葉で埋め尽くすことしかできず、自己欺瞞を重ねているように思えます。別に小説を職業にしたいとかは思っていない(これも欺瞞かしら)のですが、せっかく書いたものはいいものにしたいし、ついでに評価されたい。それが足枷であるとは言い訳ですが、本当のことを何も書けないと毎回痛感しています。最初に小説を書いたのは彼氏を面白がらせるためでした。それからはせっかくだしネットにあげてみようかな的な雑さで。カモガワ奇想短編グランプリでビギナーズラックで最終選考に残ってしまって、勘違いして公募とか送っていますが、なんともかんともです。しかし、ネットの「ワナビ」(あえて言いますが)の馴れ合いは不愉快だし、けっきょく公募で賞を取ることをひとまずのモチベーションにするしかないのかな、という感じです。やはり自分の小説には他者がいなくてペラペラな感じがするので、何か超越したいと悶々としています。

 全体的に、自我の次元でしか何も考えていなかったのですが、唐突に、「故郷喪失小説」として教科書で魯迅の「故郷」を読んだことを思い出しました。あれは主人公より故郷の変容に主眼があって、何か盲点をつかれた気分です。故郷喪失について、それを自分がどう捉えるかばかり考えていて、外在的な変化について見落としていた気がします(これも何を今更でしょうが)。

 さっき感じた喪失感に、「東京放課後サモナーズ」があります。数年前に引退してしまったソシャゲなのですが、何年も自分が続けられたソシャゲは無二でしたし、もはや高校時代の思い出にもなっていました。彼氏にオススメして、隣でプレイしているのを見ると、アプリを消したときには何も感じていなかった喪失感を覚えました。「故郷喪失というのは、そもそも往還する人々がいて初めて浮き上がってくる」というのを早速実感したわけです。内容は能力バトル伝奇ジュブナイルゲイポルノって感じなのですが、主人公の設定が、多数の異世界で追放された者たちのキメラであり、「役割」として故郷を追放されることを決定されている、という点で、故郷喪失ものでもあるのかもしれません。追放者=喪失者=マイノリティ(特にゲイ)の生存戦略を探るメインストーリーはなかなかよくできているな、とお気に入りでした。イベントストーリーではガチムチデブケモが媚態を晒して食傷気味でしたが。ちょっと脱線しましたが、ライトノベルでよく見る「追放もの」は「故郷喪失」に入るのでしょうか。これも素朴な定義論に立ち返ってしまうかもしれないですが、やはり「喪失とは何か」が自分にとっては課題なのかもしれません。事実としての喪失(感)を認めながら、その正体を探る必要がある。ライトノベルは詳しくないのですが、「追放もの」は、立ち去ることが目的であり、「故郷」も「喪失」も抱えていないように見えます。逆説的に、その能天気さが必要なのかもしれない。つまり「故郷喪失」を痛みではなく、オシャレなタトゥー気取りで消費する態度も、また重要ではないかと思えたのです。帰るべき場所に居場所がない、ということをポジティブに考えてもいい気持ちにさせてくれる。難民の「喪失」に思いを寄せ、痛みを分かち合おうとするのも、藤井さんのように、目の前の苦しみに寄り添おうとするのも立派です。しかし、個人的な「故郷喪失」を語るなら、愚かでエゴイストで陽気でもいいのかもしれない。レディコミ的な、毒親と決別してスッキリではなく、「追放もの」の空っぽさが、ときには必要なのかもしれないと思えたのです。実際に馬鹿を演じるのは、それで苦しいでしょうが……。

 真面目に故郷を喪失してしまえば、夏目漱石二葉亭四迷のように、どこにも寄る辺なく、狂うしかないのかもしれないと信じられます。「この世界の片隅に」で、主人公のすずが玉音放送を聞いて太極旗を見、「うちも、知らんまに死にたかったなあ」と「狂えず」、苦しむシーンがあるのですが、あれも、決定的な故郷喪失に他ならないのではないでしょうか。価値観の居場所が崩壊する点で、結びついているように見えます。加えて、すずの「故郷」には原爆が投下される。

 まず、外側の変化と内側の変化を観察しなければならないというのが結びです。故郷’もまた、観察による揺らぎから生じた幻影かもしれない。

往復書簡 2024/2/13

藤井さんへ

 

 儀礼的な挨拶に見えるかもしれませんが、鳩アンソロジーではお世話になりました。故郷喪失アンソロジーも企画されているとのことで、バイタリティに頭が下がります。

 故郷喪失について考えていたのですが、ディアスポラや災害避難、難民などに目を向けると、自分の喪失感がままごとに感じられます。自分は数年前に鬱病になって以来、だいたいベッドでゴロゴロしているのですが、喪失感を脳内物質の作用による虚無感と半分無意識に混同しているに過ぎないように思えます。実家へも、煩わしいと感じる一方で、大学の学費も、上京先のアパートの家賃も負担して貰っているのが現状です。

 敷衍して「故郷」を捉えても、先日、分断と喪失は異なると言及していた方が居ましたが、虚無と喪失もまた違うのではないかと今更思えました。喪失が、あったものがなくなるということなら、本質的に、存在した上で、存在しない状態にならなければならないのかもしれない。「在る」ということを結び付けられないから、「非存在」であるとするのは、欺瞞かもしれないと我に返りました。

 在るということを考えると、逆説的に、仏教的な意味での「空」を想起しました。そこから考えれば(一切が空なら)、余計に「喪失」などあり得ないわけで……。

 決定的な喪失という点で、黒沢清の「回路」を思い出しました。あの映画が分断や虚無ではなく喪失であると感じるのは、あの映画では人も幽霊もまず、「在る」ことによるのだと思います。それが消えて行く過程が恐怖の肝ではないでしょうか。

 映画というメディアの特徴自体が、全てが絶対的にに「在る」世界を描いてしまうのもある気がします。光学機器による世界の認知はあまりにも存在過剰で、スーザン・ソンタグとかではありませんが、亡霊のように在り続けるように思えてしまいます。コティングリー妖精事件の写真は好きなのですが、あんなものが「リアル」だと我々に思わせるのは、写真というポテンシャルが、存在を過多にするためではないでしょうか。「回路」を再び検討すると、喪失でもあると同時に、「在り続ける」話でもあると思います。それが映画の限界点でもあるし、喪失とは「在るもの」からのパースペクティヴでしかないということなのかもしれません。

 小説というメディアで喪失を書くなら、まず存在しなければならないのですが、それはすごく難しい気がします。「故郷喪失」と聞いて、最初に連想したのが、小島信夫の「美濃」でした。「美濃」に、「いったい岐阜とは何だ! そんなもの、この日本にほんとにあるのか?」という一節があります。「美濃」の話は覚えていない(謙遜とかじゃなく本当に頭から抜け落ちる)のですが、ここがすごく印象に残っていて――というのも柄谷行人殊能将之がこの箇所を引用していたからなのですが――「美濃」は喪失を抱えているのかもしれない、と感じました。「美濃」に限らず、小島信夫がそうなのかもしれない。小島信夫の方法で「私小説」を書くことは、まず「在る」ことの強度を高めるのかもしれず、それが「喪失」を逆説的に浮き上がらせているのでしょうか。小島信夫の晩年の「残光」はほとんどボケ老人の戯言のようなのですが、その言葉によって、強力に私が「在り」、それゆえに私の在り処を「喪失」しているように見える。

 故郷の喪失、あるいは拒絶として、カテジナ・ルースを思い出しました。「機動戦士Vガンダム」に登場するヒロインでラスボス的な人です。カテジナは故郷の街、ウーイッグを空襲で焼け出され、主人公のウッソ・エヴィンレジスタンスに合流するのですが、ウッソのような子どもを戦争に利用するレジスタンスへの不信や、変身願望や自己実現願望(?)から、街を空襲した国の将校に拉致されて以来、その将校の秘書、愛人として振る舞い、物語の後半からモビルスーツに乗って、ウッソと戦うことになります。カテジナは潔癖的な正義感から、特権的に保護されている故郷や、俗物的な父と男を作って出ていった母を嫌悪していました。カテジナは焼け野原になった故郷を見て考え込んだあと、ウーイッグの人々は皆堕落していたから爆撃されてよかったというようなことを言いました。その一方で、レジスタンスの秘密工場があったために、故郷の人々が死んでいったことに、憤りを表明する。ウッソは、憧れの深窓の令嬢である「ウーイッグのカテジナさん」でいることを強要し、悲鳴のようにビームサーベルを振り回すカテジナを簡単に一蹴して、モビルスーツを破壊する。物語の終盤、人の意志を伝達するマシンが登場し、望郷と母性への回帰を押し付け、戦争を終わらせようとするのですが、カテジナだけがその意志を拒絶し、ウッソの仲間たちを殺していく。しかし、カテジナは愛人を殺され、ウッソを殺せず、盲人となって、一人ウーイッグに帰って物語は終わります。カテジナは、「機動戦士Vガンダム」という作品を否定しようとし、敗北した存在に見えます。カテジナは社会の歪さとそれを変えられない自分を憎み、頭でっかちだけど場当たり的に八つ当たりすることしかできず、愛人に依存することもウッソの願望に妥協することも拒絶する。その孤独はやはり、故郷へのコンプレックスから来ていると思うのです。特権的に恵まれた環境を享受していることが正義と一致せず、子どもであることを理由にして、その不正義を甘んじる苛立ち。欺瞞に満ちた世界を変える力を得ようとしているのに誰もが「ウーイッグのお嬢さん」に戻れと強要してくる苛立ち(カテジナは同じ軍の仲間からも疎まれていました)。おそらく、カテジナは自分を故郷喪失者だと自認していたのではないでしょうか。しかし、カテジナはけっきょく故郷に帰らざるを得ない。これはすごく悲しいことに感じます。この悲劇はカテジナだけではなく、「機動戦士Vガンダム」が、皆故郷を失いながら、故郷に帰らざるを得ないというアイロニーに満ちている。逃げ場がどこにもないように感じる。カテジナの愚かさと哀れさは、自分にとって今でも我が事のように感じられます。

 つまるところ、「機動戦士Vガンダム」に限らず、故郷が在るなら故郷は在り続け、喪失の気持ちがあるだけで、絶対的な喪失などあり得ないのかもしれないと思えるのです。故郷が喪失したと自認するほど故郷に囚われるアイロニーを、カテジナ・ルースに思い出しました。その苦しみをケアするためのアンソロジーでもあるのでしょうか? 喪失をコンプレックスと一蹴するつもりはなく、ただカテジナ・ルースのような「喪失者」は多いのではないかと思ったのです。

 藤井さんのパーソナルな事情は存じ上げないのですが、アンソロジーは故郷と向き合う鏡なのか、アジールなのか、それともそれ以外なのか、いずれにしても、何か煩いが和らぐことを祈ります。

往復書簡 2024/2/12

鷲羽さんへ

 

 保坂和志小島信夫のやり取りの「小説修業」を読んだり、巨大建造さんとのやり取りを見て、手紙が面白いかもしれない、とミーハー的に思っていました。実際に行動にまで移せたのは、タイミングと言えばそれまでですが、伊勢田勝行監督(今は伊津原しまと名乗られていますが)からリプライを貰ったことが大きいかもしれません。伊勢田監督をご存知かわかりませんが、個人で、マンガを書いて、それをアニメにしている方です。未視聴でしたら、ぜひ一度ご覧になってほしいです。伊勢田監督とは女児アニメのプリパラやプリチャンについて他愛のない萌えトークをしただけですが、それは重要なことだと感じました。というのも、伊勢田監督は創作の原動力として、敵がいるから、とインタビューで語っていました。その「敵」というのは、馬鹿にしてきた同級生とかではなく、「私ではないもの全て」のように感じさせました。女児アニメは概して(プリパラやプリチャンは特に)「みんな友達」のような幻想を謳いますが、その幻想を一瞬でも監督と共有できた気分になりました。でも、監督のマジさに追いつけない。監督がキャラやアニメを愛でる真実の一方で、自分は衆愚になりきる小賢しさでしかアニメを見ることができないと再認してしまいました(と自己言及するのも小賢しいですが)。そのディスコミュニケーションを隠蔽して、穏便に会話を終わらせました。正しいのかもしれませんが、監督に対してあまりに自分は嘘すぎる。

 パウル・クレーの造形思考を再読して、観察の方法論という点で科学的だと感じたのですが、クレーは、観察する「私」も範囲内なのが独特だと思いました。客体化する方法を科学と呼ぶなら二項対立的に主体も在るでしょうが、クレーはそのボーダーをまさぐっているように見えます。伊勢田監督は小学生の落書きがうごめくような絵なのですが、それ故にクレーのように真実であると感じるのはおかしいでしょうか? 本質的な意味でデッサンというものがわかりません。単に光学的な視覚の追従ではなく、認識機能として線描化した現実をえぐるような? 現実が表象として現れることによる決定的なディスコミュニケーションを求めているのかもしれません。

 自分は塾講師のアルバイトをしていて、仕事の最中にコミュニケーションの断絶を目の当たりにして、見えている現実も各々が違うものだと直観してしまい、子どもの成績を上げるという仕事を果たす点では絶望的な気持ちになるのですが、祝福にも見える。初歩的な作文ができない子や、分数の概念を理解できない子を見ると、「私」でも「社会」でもない何かを信じる気持ちになれますが、見世物小屋的な感性かもしれません。

 先日、元カレが新海誠を好きだった人たちへのインタビュー企画が中止になっていました。人を馬鹿にしているし、見世物にしているから下品だというのはもっともだと思うのですが、下品なのはそんなに悪でしょうか(多少の批判で折れる程度の態度だから余計にしょうもない、というのは置いておいて)。もちろん、自分が安易にカテゴライズされるのは不快だし、人種差別などの領域は論外ですが。大衆が下品でしょうもなく、我々もその一員であるという事実を隠蔽して、傷つきすぎるのは、苦しいものだと思います。タフであれ、と言い放つのは、マチズモだと批判されればその通りですが、伊勢田監督的な意味で、世界には「敵」で満ちているのに、偶然、ネットで目に入った煩いが一つ消えれば安らぐでしょうか?

 正直、自分もネットで本や映画の「感想」を見てしまうと、不愉快な気持ちにほぼ毎回なります。愚かで無礼な人が多すぎると思ってしまいます。感想に限らず、人が人へ情報を伝達しようとする動機はたいてい俗物的で、自分を不快にさせます。なら取れる手段は、自分が心地良いコミュニケーション以外を遮断していくか、大衆の中でサバイブするかしかないように思えます。自分はほとんど前者を選ぶようになってしまって、匿名掲示板や読書メーターやFilmarksなんかのアプリを消して、ツイッターでもブロックを多用しています。だけど、それは余計に逃げ場がない行為かもしれない。不躾で申し訳ないですが、鷲羽さんはすごく真面目で、ストイックに見えます。問題系や価値判断、それにまつわる人々とのコミットメントに真摯なゆえに、結論へ足掻こうとしているように感じます。

 悪い癖で、特にミステリ小説の「感想」を見てしまうと、安易な構図に飛びついて、紋切り型でカテゴライズする言説を目にしてしまいます。だけど、それらが不愉快なのは、同族嫌悪なのではないかと感じてきました。ミステリを読む快楽の一つは、記号化、類型化の上で、「知っていること」を繰り広げる、という機能にある事実が、おぞましく感じる。優れたミステリというのはその記号化する認識機能の縁をなで回し、されざるものが匂うものかもしれませんが、それはもはやミステリではないのかもしれない。そして、ミステリをわがままに拡張し、安易なカテゴライズとして「ミステリ」を利用することに他ならないのかもしれない。

 伊勢田勝行が素晴らしいのは、端的に言って、極めて記号的なのに記号同士のパッチワークに失敗していることにあると思います。だから、その違和が、主客の外部に見える。麻耶雄嵩など、理屈として面白がるのですが、大喜利的にミステリの内部で戯れるのは、辛く感じてきました。一方で、法月綸太郎を自分が楽しめるというのは、法月綸太郎がミステリであるためにミステリが破滅する臨界点を幻視させてくれるからなのかもしれない。

 「新本格ミステリ」が、本来は限定的な様式である「ミステリ」を再配置して破壊してみせる、という運動だったと考えてもいいのかもしれませんが、全体として記号がそれゆえに崩壊する様式を、楽しんでいるのかもしれません。たぶん、それが逃げ場だと勘違いしているんだと思います。

 鷲羽さんのスケッチの意志は、今の現実の目の前に立とうとしているように見えて、好ましく感じます。その態度が、文章を書くことも通底しているみたいです。

 とにかく、伊勢田監督にしても、鷲羽さんにしても、比べて自分は不真面目すぎると反省した次第です。手紙を出す、という行為からでも少しはマシになりたいですね。