くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

『十兵衛ちゃん2 -シベリア柳生の逆襲-』――ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーんの繰り返す営み――

「どこへでも行ける 私 この道 その先へ」(堀江由衣『心晴れて 夜も明けて』)

 

 率直に述べれば、この作品をどのように評価していいのかわからない。なるほど、アクションの作画は派手でかっこいいし、ストーリーもドラマティックだ。しかし、そのような「評価軸」でこの作品を当てはめることに意味はあるのだろうか。

十兵衛ちゃん2 -シベリア柳生の逆襲-」は「十兵衛ちゃん-ラブリー眼帯の秘密-」の続編にあたる。声優やスタッフなどの変更はあるが、ストーリーとしては直接、前作の続きとなる。

十兵衛ちゃん-ラブリー眼帯の秘密-」では主人公「菜ノ花自由」は普通の女子中学生でありながら無理矢理、二代目柳生十兵衛の条件である「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」を見初められ、「ラブリー眼帯」を託され、「柳生」に恨みを持つ剣士と戦うことになる。はじめは柳生十兵衛になる(「ラブリー眼帯」をつけると柳生十兵衛に変身してしまう)ことを拒否していた自由が、三百年間、「柳生」に捉われていた人達を解放することを決意するまでの話と言える。

コミカルな演出やキャラクター、スピーディーで外連味の効いた殺陣、「菜ノ花自由」であることと「柳生十兵衛」であることとの間での葛藤を縦軸とした明晰なプロットなど、全体として職人的なクオリティの高さを維持しつつバランスの取れた佳作であり、悪く言えば無難だが、どのような層の人が見ても楽しめるアニメだったと評価できるだろう。

 しかし「十兵衛ちゃん2 -シベリア柳生の逆襲-」においては、そのバランスは崩れている。アクションはよりド派手に、ストーリーはよりシリアスに、その重苦しさを紛らわすようなコミカル要素の唐突な挿入(徳弘正也の作風と近いかもしれない)。結果、万人受けするタイプだった前作と異なり「よくわからない」作品となっている。そこで「十兵衛ちゃん2 -シベリア柳生の逆襲-」とはなんだったのか考えるために、前作と何が変わったのかから考えてみたい。以下「十兵衛ちゃん-ラブリー眼帯の秘密-」を「十兵衛ちゃん」、「十兵衛ちゃん2 -シベリア柳生の逆襲-」を「十兵衛ちゃん2」と略す。

 まず、アクションの変化について。「十兵衛ちゃん2」の冒頭は氷河の上での剣戟で始まる。剣の一振りで氷河が割れ、落下しながらの空中戦。このような大仰なアクションは「十兵衛ちゃん」では見られなかった。ここで、「十兵衛ちゃん」と「十兵衛ちゃん2」の間で、リアリティラインは大きく変更されていることが提示される。「十兵衛ちゃん2」でのその他のアクションも同様に派手になっており、ざっくり述べればよりファンタジックな、「アニメ的な」世界観になっている。

 その一方で、「十兵衛ちゃん2」での戦闘は、怪我や流血といった表現を伴う。特に、斬られて流血するという事態は「十兵衛ちゃん」では存在しない。そこに、強いギャップが生じる。つまり、リアリティラインの水準では、落下しても死なない身体、何メートルも飛び上がる身体、超高速で動き回る身体を前提としながら、「流血」という当たり前の事実が、しかし「十兵衛ちゃん2」が提示していたリアリズムから逸脱した表現がなされる。このギャップはアクション以外でも見られる。例えば、「十兵衛ちゃん」では、三百年間生き永らえ「ラブリー眼帯」を渡そうとしてきた「小田豪鯉之助」が、自由に柳生十兵衛になることを拒否されて絶望し、急激に老化して干からびてしまうシーンがある。そのシーンはあくまでギャグとして描写される。「十兵衛ちゃん」のメインストーリーを「菜ノ花自由」と「柳生十兵衛」の葛藤と雑に要約してしまえば、普通の女子中学生「菜ノ花自由」=日常と「柳生十兵衛」=非日常=フィクションの拮抗と換言できる。だから、「十兵衛ちゃん」において、非日常の侵入の顕現である「ラブリー眼帯」、それを媒介する「小田豪鯉之助」は「十兵衛ちゃん」におけるギャグ≒フィクションとして描写される必要があった。「十兵衛ちゃん2」では「小田豪鯉之助」の代わりにその子ども、「小田豪鮎之助」が「ラブリー眼帯」の媒介者として登場する。前作と似たように、柳生十兵衛になることを拒絶された「小田豪鮎之助」は森の中で木になってしまう。しかし、そこにコミカルさはなく、極めて深刻な事態として描かれる。

十兵衛ちゃん」では日常と非日常の区別がはっきりしていた。だから「柳生十兵衛」にまつわることは、日常を破壊しない。破壊してしまえば、日常と非日常のギャップというおかしみが消えてしまうから。「十兵衛ちゃん2」では、日常と非日常の区別が破壊されている。斬れば血を流す「リアリズム」と三百年間生き永らえた子どもが木になる「フィクション」が同じ比重で描かれる。「ラブリー眼帯」の位置づけも、日常に入って来た非日常から、日常と非日常の境界を攪乱する装置へ変わっている。「十兵衛ちゃん2」で「ラブリー眼帯」を装着して「柳生十兵衛」に変身することは、日常から非日常への移行ではなく、「十兵衛ちゃん2」の前提の設定だからだ。それこそが、「十兵衛ちゃん2」の困惑の一因でもある。繰り返すが、「十兵衛ちゃん」では「菜ノ花自由」という日常の地盤と、「柳生十兵衛」という非日常の意図的なミスマッチが軸だった。しかし、「十兵衛ちゃん2」では、自由が再び柳生十兵衛になることを拒絶しても、世界観の前提が「菜ノ花自由」=「柳生十兵衛」になっている。だから、地盤は常に不安定で、視聴者の「十兵衛ちゃん2」への態度は常に不安にさらされることになる。

 この不安定さは、最終盤でピークに達する。三百年間氷山で氷漬けになっていて現代に蘇った、真の二代目柳生十兵衛を名乗る「柳生フリーシャ」と「菜ノ花自由」の対決、和解の後、「柳生十兵衛」へ執着する亡霊が襲ってくる。フリーシャと自由は合体(!)して(本当に物理的に融合している)打倒し、死者、生者、三百年間生き永らえた者が入り乱れて、精神や肉体もごっちゃになりながら会話がなされる。そして最後、「十兵衛ちゃん」のラストでは肉体的に消失した「小田豪鯉之助」と異なり、「十兵衛ちゃん2」では消え去らず、帰って来た「小田豪鮎之助」の元へ自由が駆け出して終わる。しかし、生/死、肉体/精神の区別が完全に破壊されたあとで、自由の元で再び生き続ける「小田豪鮎之助」に対して、どのように考えればいいのかわからない。

 ここで補助線としてまず大塚英二の議論を参照したい。大塚英二は「プレーン・クレイジー」でのミッキーマウスのようなどんな惨事にあっても傷つかない存在の在り方を「傷つかない身体」、「記号的身体」と呼び、日本のマンガ、アニメーションはディズニー的なものを起源としながら、それが移植された亜種であるとする。手塚治虫の「勝利の日まで」において、ディズニー的な作画水準で描かれた「記号的身体」の持ち主は銃に撃たれ流血する。そこに、大塚英二は「傷つく身体」、「死にゆく身体」の概念が導入されたと論じる。つまり、記号的なキャラクターの非リアリズム的な表現はいかにしてリアリズムを獲得し得るか、という論点に身体性の観点から切り込んだものと言える。この次元において、記号=非リアリズムと写実=リアリズムは対置される。記号的キャラクターに傷つく身体を与えることは矛盾であり、その矛盾によってリアリズムが獲得されてきたということになる。

 伊藤剛はその議論を踏まえて反転させている。大塚英二手塚治虫地底国の怪人」の結末――「耳男」というウサギが人知れず「ミミ―」という少女や「ルンペンのこども」に変装していて、最後に変装が解けて、死んでしまうシーン――について以下のように述べている。

 二本足で人の言葉を話す動物は、ディズニー世界から手塚治虫世界の住人になったことで、「傷つく心」を与えられたと同時に「死にゆく体」をも与えられたのである。

『勝利の日まで』で手塚が描いた、記号的表現によって描かれながら死にゆく体をもったキャラクターはこのように「耳男」としてようやく手塚まんがの中に明確な輪郭を結ぶのである。

 一方、同場面について伊藤剛は以下のように述べる。

 耳男の「死」が衝撃たりえたのは、その「死」が「もっともらし」かったからではなく、キャラが「かわいかった」からである。その「かわいさ」とは、まさにキャラの持つ「プロトキャラクター性」の強度に他ならない。

 このラストシーンで、たしかに「死」は描かれる。

 だが、この場面で耳男/ミミ―/ルンペンのこどもの三様が描かれるということ、すなわちここでの耳男の描写が、身体性を欠いていることに気づかなければならない。ここでは、キャラが単純な線画で構成されていることが逆手に取られている。耳男はウサギである。顔には白い(おそらくは白であろう)毛が密生しているはずだ。

 もしここに少しでも写実的に身体を想像させるものがあったならば、この場面は成立しない。耳男/ミミ―/ルンペンのこどもの三様がカツラや帽子といった「描かれたもの」の有無で可変的に決められているということは、とりもなおさず、「ただの線画」が、あたかも実体を持っているかのように実在感/生命感を持ってしまうという、私の言葉でいう「プロトキャラクター性」を利用したものであるのは間違いない。

 伊藤剛の述べるところの「プロトキャラクター性」とは伊藤剛の議論におけるキャラ/キャラクター概念の区別での「キャラ」側に対応する、「記号的身体」に近い概念として、

 多くの場合、比較的簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 と定義される。また、「キャラ」と対比される「キャラクター」は、

「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

 と定義される。つまり、「キャラ」が本来的に持ちうる「リアリティ」を隠蔽し、それを「人格を持った身体」の表象たる「キャラクター」として読ませることで、近代のマンガはリアリズムを獲得したと主張する。さらに、この「キャラ」のリアリティの起源について、サカキバラ・ゴウは以下のように述べている。

 アニメーションの「登場人物」が人間というリアリティを棚上げして、キャラクターとなって疾走していくとき、おそらく現在われわれが日常的に慣れ親しんでいるような意味での「キャラクター」が、そこに生じていったように思われる。物語の重力圏にとらわれ、その中で役割を果たすための奥行きと重さを持った「登場人物」から、浮遊する空っぽの「キャラクター」へ。そのテイクオフには、おそらくこの時代のアニメーションが大きく関わっている。……「物語」や「現実」の重力を「動き」という魅力によって断ち切り、単に絵でしかないものとしての記号の世界へ浮遊していくこと。

 このような「単なる絵」でしかないキャラクター(伊藤剛の定義するところの「キャラ」)は、ディズニーアニメを筆頭に現実と同質の空間を表象するリアリズムの方法論として確立されることになる。「プレーン・クレイジー」(一九二八)から「白雪姫」(一九三七)までには物語を描写する表現力をアニメーションは獲得している。しかし、そのようなリアリズムの転回に対し、「ダンボ」(一九四一)へジークフリート・クラカウアーは以下のように評している。

 ディズニーの最初のミッキーマウスカートゥーンである『プレーン・クレイジー』(一九二八)では、漫画家のペンの力のみによって、小さな自動車が飛行機に変形され、操縦席のミッキーを飛行させる。『ダンボ』でも同様の奇跡が起こり、象の赤ん坊が突然耳を広げ、ペガサスや爆撃機のように宙を滑空する。しかし、ここでの奇跡は、この映画がカートゥーンだからという事実に単に由来するのではなく、ダンボの友人である小さなネズミが、横柄な鳥たちから手に入れた「魔法の羽」の心理的効果に依っているのである。この些細な相違は、ディズニー映画の構造上の変化を露わにしている。

 この、「単なる絵」だからこそ可能であったミッキーマウスの飛行と、物理的な空間に生きているダンボの飛行の差、すなわち、この現実空間の表象=再現と「単なる絵」の出自の葛藤が、「十兵衛ちゃん2」に感じる違和に他ならないのではないだろうか。

 まず「十兵衛ちゃん」の冒頭、二代目柳生十兵衛として「ラブリー眼帯」を継承する条件を、柳生十兵衛は「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」と述べる。ギャグであるが、露骨に身体性への目配せであると述べていいだろう。「十兵衛ちゃん」においては、「柳生十兵衛」への変身を除いて、極めて現実空間の表象に即した描写に根付いており、だからこそ、落書きのように作画されるキャラクターや、急激に老化する描写などがギャグとして、あるいは変身という事態のフィクション性の土台として強力に機能していた。「ラブリー眼帯」は「ダンボ」における「魔法の羽」のようなもので、ようやく空間(の法則)からの飛翔を可能とするエクスキューズとなる。

 しかし、「十兵衛ちゃん2」における「ラブリー眼帯」はすでに空間内に根付いたものであり、変身という事態はもはやフィクション性を持たない。ゆえに、現実の物理法則から遠ざかった、「十兵衛ちゃん」では不可能だった過剰なアクションが可能となる。これはリアリティの欠如ではなく、回帰と捉えるべきだろうか。「十兵衛ちゃん」で行われていた、「キャラ」(のリアリティ)を抑圧することで「キャラクター」を成立させ、それを物理的な空間に配置し、物語の重力を発生させるという、現代のマンガ/アニメ表現においてオーソドックスな、「バランス」の取れた作品作りの方法論は、「十兵衛ちゃん2」の構造とはそぐわない可能性がある。

 再び、「十兵衛ちゃん2」において、流血することと木になる事態がリアリズムの観点で等価であることを思い出したい。流血も木になることも、同様に「死」を喚起させる出来事として成立するのは、「十兵衛ちゃん」冒頭、最初に提示された「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」という身体性――性的な身体、死にゆく身体――から、「十兵衛ちゃん2」では問題系が切り替わっていることを意味する(事実、「十兵衛ちゃん2」での二代目柳生十兵衛の条件は眼帯の継承に比重が強まり、「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」については言及されない)。つまり、「十兵衛ちゃん2」の戦略として「プロトキャラクター性」の強力さの利用が論点になる。「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」という身体を当初持たされた自由は、最終的にフリーシャと合体し、身体性を剥ぎ取り、自らが「単なる絵」でしかないことを知らしめる。加えて、「小田豪鮎之助」が男ではなく女であったことがわかる最終盤の場面も、自らが記号の集積に過ぎないことの露呈として「地底国の怪人」の耳男のシーンとパラレルだ。

 その上で死者、生者、三百年間生き永らえた者が入り乱れて、精神や肉体もごっちゃになりながら会話をするシーンに戻ると、「十兵衛ちゃん2」においてはこのシーンは異常事態でもなんでもないことがわかる。何せキャラたちがずっと「単なる絵」であることが提示され続けていたために、「何でもありだから何でもあり」ということに過ぎない。

 この徹底的な暴露のエピローグとして、「小田豪鮎之助」は身体を持って帰還する。これは「十兵衛ちゃん」のラストにおいて「小田豪鯉之助」が「ラブリー眼帯」とともに消失し、「単なる絵」であることをすべて担ったことと対をなす。「十兵衛ちゃん2」での本当の飛翔はここにある。「ラブリー眼帯」が前提の空間に配置された「キャラ」は自らが「単なる絵」であるという自己言及に陥り、そこに「十兵衛ちゃん」の続編として、あるいはアニメ視聴の惰性的な方法として、視聴者が「十兵衛ちゃん2」の「キャラ」に「キャラクター」をでっちあげ、結果、違和感を生じさせてきた。

 延々と「キャラ」が戯れ続け、身体性の虚妄を徹底的に突き付けられたあと、身体を持って眠る「小田豪鮎之助」とそれに涙を流して駆け寄る自由で物語は終わる。そのシーンに再び、視聴者は「キャラクター」を再構築する。「ラブリー眼帯」が支配する「何でもあり」の空間から、身体――「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぼんぼーん」――への回帰、それは、自由にとって、「菜ノ花自由」としての日常が戻ったプロット上の運動に限らず、視聴者にとっても、仮構されたリアリズムの世界への帰還を意味する。「十兵衛ちゃん2」で成し遂げたことは、リアリズムと非リアリズムの単なる混交、混乱ではない。虚構の中でいかにリアリズムを成し遂げるか、という根本的な問題に立ち返ったものである。

引用・参考文献

大塚英二大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川書店、二〇〇五年

大塚英二アトムの命題徳間書店、二〇〇三年

伊藤剛テヅカ・イズ・デッドNTT出版、二〇〇五年

サカキバラ・ゴウ「浮遊するイメージとキャラクター――近代メディアにおけるまんが・アニメの位置づけ」『新現実』四号、太田出版、二〇〇七年

三輪健太郎『マンガと映画――コマと時間の理論』NTT出版、二〇一四年