くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『マンガと映画 』三輪健太郎

 本書は映画とマンガという「近代」的な芸術を比較することでマンガの理論化を試みる。これは映画とマンガが近代の「視覚」に依拠しているからだ。つまり、それは映画とマンガを同じように読み解きうる「視覚」を近代人である自分たちが持っていることを意味する。

 モダニズムにおいて、各々の芸術の自己―批判=自己―限定において芸術の純粋さは保証される。マンガは文学でも絵画でもない不純な立ち位置にいる中でそれ固有のメディウムとして「コマ」を発見した。映画においてはそれは舞台美術と比較され、空間の動態化として論じられることになった。

 映画とマンガとの差異で一般的に言及されるのは、「フレームの可変性」と「読みの時間の能動性」である。

 しかし、読者の能動性、受け手の自主性は必ずしも「読みの時間」によってのみ生じるものではない。

 多くの場合で論じられる視線誘導の技術は作者が読者の読みをコントロールしうるという発想に基づいている。しかし、「作者の死」を念頭に置くにはその葬るべき対象をまだ把握できていないと言える。また、ここから逆説的にそれを「作者」が放棄しうるマンガなども想定でき、我々は指示されたり放棄されたりする「読み方」に従ったり抗ったりできる。

 映画では定められた速度でイメージが映写され、マンガは読みの時間が読者に委ねられていることはメディウムの物質的な条件から必然的に帰結する差異であるため、筆者はメディウムからスタイルへの問題の移行を提示する。すなわち、マンガにおける「映画的」なスタイルを論じることでその近しさを捉えていく。当然それはメディウムの特性を前提として、である。

 例えばマンガの「コマ」を映画の「ショット」に見立てる。

 大塚英志はコマの大きさとショットの尺が正確に呼応しているわけではないが、少なくともコマ一つひとつに相当されたショットの時間が異なることは表現されている。と指摘する。すなわち、フレームの可変性がむしろ映画的な表現として理解できる可能性である。逆に言えばフレームが変化しないマンガにおいて、マンガと映画との差異が明瞭になりうる。

 竹内オサムモンタージュになぞらえた第一のイメージにおいて作中人物がある方向に視線を向けたことが示され、第二のイメージでその視線の対象(と思しきもの)が示される図像の連鎖を「同一化技法」と名付ける。   

 筆者は「POV」と「視点」を分けて考察する。すなわち、「主観ショット」=「POV」とそれがもたらす「同一化」という効果が区別されなくてはならないということだ。 

 現実世界の情景をカメラによって機械的に再現する映画に対し、マンガは「形喩」表現によって世界を記号化する。光学装置の発明によって記号的なものと写実は対立項に置かれることになった。マンガのテクストを構成するのは「だだの線」であり、読者はそれを様々な約束事に従って何かの表象として読み取っているに過ぎない。だからこそ、あらゆることがおこりうるし、逆説的にあらゆることが無効になる世界になることが問題意識としてある。

 マンガにおける身体性は非リアリズムで描かれたキャラクターに、リアルに傷つき、死にゆく身体を与えた瞬間に変容したと論じられる。内面においても同様に「私」の容れ物としてのキャラクターに生身の身体を与えることで、「私」のあり方がよりリアルになることにより成立していく。

 一方で伊藤剛は単純な線画で描かれたキャラクターがだからこそ「実在感」を持つという図式を見出す。

 伊藤剛は「キャラ」を「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指しされることに、よって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの」とし、「キャラクター」を「『キャラ』の存在感を基盤として、「人格を」持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させるもの」と定義する。

 この「キャラクター」の成立こそが、「マンガのモダン」の成立と捉える。記号的な「キャラ」が本来的に持ちうる「リアリティ」を隠蔽し、それを「(人格を持った)身体」の表象たる「キャラクター」として読ませることで、近代マンガはリアリズムを獲得した、と言える。そして現代の(ポストモダン)のマンガは「モダン」の中で隠蔽・抑圧されてきた「キャラ」が「自律化」し、それを積極的に享受・消費する「読み」が進行してきたとする。

 大塚英志が指摘した戦時下マンガにおける特徴は「科学的なリアリズム」「記号的な身体性」「戦局を見る視点」「映像的手法」である。ここでは「記号的な身体」の表現を補うために残りの「リアリズム」を導入したとされる。

 伊藤剛は「マンガのモダン」において「キャラ」のリアリティの隠蔽と共に「フレームの不確定性」という特質が隠蔽されたことを指摘する。この抑圧によって得られたものが「映画的リアリズム」であると。ここでの「フレームの不確定性」とはマンガにおけるイメージが、ページ単位だけでなくコマ単位でも二重に分割されることに由来する性質である。つまり、マンガにおける「フレーム」は「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。

 「フレームの不確定性」に支えられた表現はページ、見開き単位でコマ構造を変える必要が出てくるが、「マンガのモダン」はそれを抑圧することで「映画的リアリズム」を獲得した。つまり、フレームを「コマ」の側に固着させ、あたかも仮想的なカメラがあるかのよつに描くことで映画的なリアリズムを獲得したと言える。

 「キャラ」が「紙の上のインクのしみ」でしかないものであることが、その実在感を支えていること。「マンガのモダン」においてキャラが枠線を突き破る表現は枠線もその中のキャラも等価な存在であることを顕にするため、隠蔽されざるを得なかった。

 したがって、問題となるのは「仮想的なカメラ」と「インクのしみ」の間にあるものだ。ふれーの中に描かれた光景が単なる「紙の上のインクのしみ」などではなく、「仮想的なカメラ」によって捉えられることが要請された。

 マンガは現実の「空間」を表象=再現する技法は、「透視図法」「奥行き」「遠近法」といった「映画的手法」と、「仮想的なカメラアイ」として回答とできる。

 マンガは現実空間の表象であろうとしながらも、同時に「インクのしみ」としての出自を露わにし続けてきたのであり、その葛藤として表現史を捉えうる。

 写真はあまりにも「豊富な細部」が含まれているために体系化された「記号」として使用することが困難な一方で、マンガは細部を単純化し、描画を記号化することで、極めて高い意味伝達性を獲得するが、ゆえに一度に一つのことしか表現できない。

 ロラン・バルトはコード化されないもの=プンクトゥムを写真の細部に見出す。バルトはフォトグラムに3つの意味の水準を用意する。「情報伝達のレヴェル」「象徴的なレヴェル」「第三の意味」である。象徴的なレヴェルとは意図的(作者の言おうとしたもの)であり、一種の一般的で共通した語彙のなかから採取されるものである。

 このコード化されない意味を線画において見いだせないと考える必要はない。

 少年マンガが動きをみせる方面に発展していった一方で少女マンガはムードをみせる方面に発展したと藤本由香里は指摘する。例えばそれは物語を追う上で直接関与しない三段ぶち抜きなどに代表される。このように少女マンガのコマの構成方法。「重層的」ないし「多層的」なものとして捉える方法は広く普及した。これは少年マンガが「映画的リアリズム」に向かったとすれば「過去の回想と現在の意識の錯綜、気づく瞬間の意識の分裂を表現」する「文学的リアリズム」に向かったと言える。

 複数のイメージを空間的に並置するというマンガのメディウムの特性は、「視線誘導」という技法を必然的に導くものではない。「視線誘導」とは映画とは異なるメディウムの特性を前提とした技法でありながら、どうじ、それによってマンガの中に極めて「映画的」と考えられる様式を構築させるものである。逆にそこから非映画的イデオロギーに基づき視線を遊ばせる漫景を発見できる。高山宏はマンガが情報伝達のために視線の拡散が組織的に抑圧されていたことを指摘する。

 マンガは静止している故に、逆説的に静止を表現するためには何らかの方策を取らなければいけない。無音を表現するのと同様に。マンガは静止させようとしなければ自然と動きを表現してしまう。

 映画的手法は二つに分けられる。一つは運動を徹底して分節表現すること。これを推し進めると映画のコマへと接近していくが、逆に自らが静止画の連続で構成されていることをあからさまに示すことともなりうる。

 二つはマンガのコマをあくまで映画のショットに見立てるもの。ここではそのコマの内部に運動がなければならない。

 漫景は映画的様式の前提としての時間把握の仕方をしていない。非映画的、特権的瞬間になぞらえるような非近代的表現。コマとは時間と空間についての近代的認識のあり方を反映した装置である。

 この論を読んだ上で自分は竹本泉を重要な作家であると考える。竹本泉こそキャラクター以前のキャラの実在性を早いうちから指摘し、フレームの不確定性を体現した画面構成をしているからだ。そして重要なのは「私」は「竹本泉」に「何か」を感じている。情報伝達と象徴の外部の「何か」。否定神学的な方法でしか到達できないのかもしれないし、それでも不可能なのかもしれないが、精緻に分析したく思っている。