くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『戦場のフーガ 鋼鉄のメロディ』(1〜4)足立たかふみ・サイバーコネクトツー/『宇宙プロジェクト開発史アーカイブ』鈴木喜生/『月の真実と宇宙人の存在』39直人/『月の縦孔・地下空洞とは何か 月探査機「かぐや」による縦孔発見から「UZUME」計画まで』春山純一

 今日集中的に宇宙の本を読んだのは陰謀論にハマったからではなく、前から書こうと思っていた東方の二次創作、特に紺珠伝をモチーフに何か書こうと思ったからだ。幻想を侵略する不可視のキュリオシティとアポロ捏造説は魅力的なイメージに感じた。というわけで月面探査やそれにまつわる陰謀について調べようと思ったわけだけど『宇宙プロジェクト開発史アーカイブ』は宇宙開発史の概略をカタログ的に知るには適当だったけど、深掘りするには少し物足りなかった。

 『月の縦孔・地下空洞とは何か 月探査機「かぐや」による縦孔発見から「UZUME」計画まで』ではそのタイトルの如く月の縦孔の探査について詳しく書かれていて興味深かった。それに火星の縦孔についても記述があって、ドーム状に隠蔽された地下空洞のイメージは東方的な(裏)月面とも重ねることができそうだなあと思いながら読んでいた。東方の月の都の結界ってどういう設定だっけ?と忘れていたけどあいにく儚月抄が手元にないのでネットで調べる。獣王園は清蘭が登場するからまた月絡みの設定が開示されるかもしれない。故郷の星が映る海はうどんげ的にダブルミーニングでニクいと思ったけど、獣王園で忘れがたき、よすがの緑が清蘭のテーマとして再設定されてこちらもなかなかニクいなと思った。

 残念だったのは『月の真実と宇宙人の存在』。陰謀論ならパラノイア的に星座を描くような過剰接続の大伽藍を期待していたわけだけど、これはちょっとした宇宙人や宇宙船がいるかも的な期待をするだけでしょうもない。いや、陰謀論の本に体系を求めるのが間違っているのは承知だけど当人なりの正気を楽しむのがオカルトのよさだと思うのでウィキペディアやアンビリバボー以下の細々したゴシップもどきなら読まなくてもいいや。

 陰謀論と二次創作はどこか似ていると感じたけど、それをさせる元ネタ(?)も情報の粗密のアンバランスさが似ている気がする。アポロ計画は公開されている情報は当然多岐にわたるし緻密なわけだけど、当時隠していたりした部分は徹底的に見えない。東方や例えばエヴァなんかにしても、キャラたちが何をしているのかは提示されてもそこに至る世界のルールはごっそりと抜け落ちている、と思えばあるディテールは過剰に書き込まれている。

 笑い話としてZUN極右説なんてあるけど、たぶん違う気がする。ZUNはストーリーテーリングが下手だからだ。フェムトファイバーを思い出すまでもなく、東方のマンガは面白くない。設定の提示はされてもそれを有機的に結びつけてドラマにするのが困難なんだと思う。極右ならもっと大きな物語を信頼しきってこのような情報の粗密の不格好はさせないんじゃないかと期待する。庵野秀明にしてもシン・ゴジラなんかで右翼チックに映るのも単に物語への興味のなさの表れなんじゃないか。だから欠けた物語を埋めようとするメカニズムが陰謀論や二次創作を発生させるんじゃないだろうか。過剰に極端な情報の粗密でいうとGのレコンギスタを思い出すけど、これはきっと逆のことをやっている。つまり、世界のルールは開示されるが、キャラが何をしているかの提示を意図的に端折っている。これはある意味陰謀論に染まっていたアイーダたちが、社会の仕組みを知る話だから構造として正しいと思う。だからGのレコンギスタにはパラノイアに陥る不健全さがなくてみんな素直にあっけらかんとしている。昔はGのレコンギスタの情報爆発にピンチョンなんかを想起したけどまるで別物だと理解した(ヴァインランドあたりのケンコーな時期なら比較できるかも)。ディックやピンチョン的なパラノイア富野由悠季には似合わない。大きな物語を描いたファーストガンダムイデオンなんかにしても情報の接続はパラノイアじゃなくヒステリーだ。情報は錯綜するだけで、多重に接続されることはない。

 その点でケモノジャンルというのは物語はない。なぜならケモノはポルノだからだ。物語を運動のことだとするならポルノは常に瞬間を切り取られている。ケモノでありながら物語化すると何かのメタファー(たいていは同性愛者)にしかならない。

 『戦場のフーガ』はその意味で物語はない。確かにストーリーテーリングは見せているかもしれない。しかしそれはケモノを見せるための装飾に過ぎない。インターミッションでキャラたちの排泄について考えていたのも、細部やリアリティへのこだわりというより、勃起しうる存在としてのケモノの存在からして当然の連想なんだと思う。ゲームの童話的色彩、音楽から少年マンガ的な画面構成に変わったことでより確信した。これは泣いたり怒ったりするケモノを見せることが本質であって、それ以上は何もない。だが、そのケモノである=フェティッシュのみの空虚な存在は今ここに生きるそのままの人間と何も変わることがないのではないかとも感じる。

 だが、そのようなケモノ解釈こそケモノの物語化にほかならないのも自覚している。それがさらなる物語化を産み……という無限の構造を抜け出す手段はあるのだろうか。

 その欠けた大きな物語を埋め合わせるために『戦場のフーガ』は戦争という舞台を必要としたのではないだろうか。ケモノの逃げ場のなさは私達に似ているし、逃げ場がないことへの逃げ場のなさも私達に似ている。

月の縦孔・地下空洞とは何か