くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『読書について』ショーペンハウアー

 そもそも読書日記を付けようと思ったきっかけを考えるにあたって、『読書について』はちょうどよかった。というのも自分が何も考えていないのを実感していたから。

 読書とは他人の頭で考えることだみたいなアフォリズムは聞き覚えがあっても、実際に自分自身で思考するのは難しい。それを積極的に意識するようになったのは小説を書き出したのもあるし、竹本泉の批評に失敗したことが大きかったと思う。

 『ながるるるるるこ』について批評を書こうと思ったわけだけど何も書けなかった。少なくとも竹本泉の作風や描き方には詳しいし考え続けていたと自負していたので言語化しようとしたときに絵がかわいいとかちょっとペーソスを感じるとかその程度の表層的な言葉しか出てこなかったのはショックを感じた。あくまで表層に留まり続けるのが竹本泉なのだ、とも言えなくもないけどそうではない何かを感じているから竹本泉を愛しているし何かを書こうと思ったわけで、その何かを何も考えていなかったことさえ意識できていなかったことは書かないとわからなかった。

 ショーペンハウアーは物書きを三種類に分類する。一番目は考えずに書くタイプ。二番目は書きながら考えるタイプ。三番目は、書く前からすでに考えていたタイプ。

 自分が三番目に位置すると意識していたのがうぬぼれだと気がつけたのでせめて二番目くらいにはなろうと思ってメモをつけようと思う。

 またショーペンハウアーの称揚するテーマそのものについて考える、という考え方もできていなかったと思う。小説でも自分なりに「小説」や「ポルノ」や「プリチャン」とかその小説ごとの課題について考えていたつもりだったけど、体系化できていない。故に散文であるというのは逃げだ。少なくとも明晰に論理的に書きたいと思っているがそうできない。曖昧模糊としたものを書きたくてもその曖昧模糊さを描写できない。ただ分裂した言葉の羅列を並べるしかなかった。

 読書してから考えないと血肉にならない、というのはショーペンハウアーのおっしゃる通りで(とすぐ鵜呑みにしちゃうのがだめなのかもだけど)少なくとも書く前に考えることができてないことを知れたから書いて考える訓練をしたいと思ったわけだ。

 乱読はしょうもないというのがショーペンハウアーの主張だけど自分はどちらかと言えば乱読タイプでミーハーだからけっきょく過食して嘔吐していたようなもんだったんだと思う。それで読書ペースが落ちて消化不良に気がついた。思想を体系化できてないのは意識していたけど、とりとめのなさの向こうは空っぽだった。一時期うつ病で活字が読めなくなったけど本当に自分の中には何も語るべき言葉も読むべき言葉もなかった。じゃあ何で読んでいたのか、となるとコレクション欲やファッションがなかったとは言えない。

 読書メーターはよくできていて簡単にコレクション欲を満たしてくれる。読まなくても読みたい本を登録して架空の本棚を作り上げてそれだけで満足させてくれる。そういう読書をしてきたから全部否定したいとは思わないし、ファッション的な背伸びから成長するということもあると思う。小学生の頃だってディックとかバラードとかわからないまま「かっこいい」から読んでいたけどそれは無駄じゃなかった、と肯定したいのもある。ただそれだけじゃだめだと思ったからこうして(ショーペンハウアーに言わせれば)駄文を書いてみているわけです。

 再読しろ、古典を読め、というのもショーペンハウアーのおっしゃる通りです。体系化されない、しようとしない読書が時間の浪費でしかないのはわかっている。でも暇つぶしの読書だってしたい。読書の快楽には自分の頭で考えない快楽というのが確実にあると思う。わかっていることをわかるように書かれると半身浴みたいに楽しい。自己成長とか高貴な精神とか言い出すのも胡散臭いし恥ずかしい感じがする。その上でそれに安寧していてはだめだと思った。自分はマゾヒストではないけど変革というのは絶対的なストレスでだからこそより高い快楽を得られると信じている。安寧の快楽はうつ病の快楽と同じだ。ニルヴァーナへの意思は自殺に追い込むかもしれないしそれが怖い。

 匿名批評批判もなかなか耳が痛かった。ツイッターだけじゃなくふたばちゃんねるとかも入り浸って無為な時間を過ごしていたから。ふたばちゃんねるの快楽は典型的な安寧の快楽だ。いつもの画像、いつものやりとり。全く考えなくていい気持ちよさ。本気でふたばちゃんねるを続けると自殺するしかないと感じてきた。ふたばに限らず匿名ネット文化は気持ちよく「オレたち」を演出してくれて恥ずかしげなく豚のような大衆になれる。大衆の中に紛れ込むのは安心する。ましてや「オレたちキャラ濃過ぎ」なんて言い合えば絶頂する。ここで絶頂する、みたいな洒落臭いジャーゴンを使うところがけっきょく自分の逃げ場のなさを物語っているのかもしれない。

 でも成長したいという意思がありたいのは嘘ではない。賢くありたいし高貴でありたいと思う。ショーペンハウアーはそれを自分で考える人だと断言し、それが心地よくもあるし不安でもある。批判的である必要はないけどショーペンハウアー的な読書観と自分の今の問題意識を混同しすぎている気がする。本来それこそ自分で考えなくてはいけない意義なんかをショーペンハウアーが考えてくれていた。そこの分別をつけるためにもそれこそこの本をそのうち再読しないといけないのかもしれない。