くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

往復書簡 2024/2/12

鷲羽さんへ

 

 保坂和志小島信夫のやり取りの「小説修業」を読んだり、巨大建造さんとのやり取りを見て、手紙が面白いかもしれない、とミーハー的に思っていました。実際に行動にまで移せたのは、タイミングと言えばそれまでですが、伊勢田勝行監督(今は伊津原しまと名乗られていますが)からリプライを貰ったことが大きいかもしれません。伊勢田監督をご存知かわかりませんが、個人で、マンガを書いて、それをアニメにしている方です。未視聴でしたら、ぜひ一度ご覧になってほしいです。伊勢田監督とは女児アニメのプリパラやプリチャンについて他愛のない萌えトークをしただけですが、それは重要なことだと感じました。というのも、伊勢田監督は創作の原動力として、敵がいるから、とインタビューで語っていました。その「敵」というのは、馬鹿にしてきた同級生とかではなく、「私ではないもの全て」のように感じさせました。女児アニメは概して(プリパラやプリチャンは特に)「みんな友達」のような幻想を謳いますが、その幻想を一瞬でも監督と共有できた気分になりました。でも、監督のマジさに追いつけない。監督がキャラやアニメを愛でる真実の一方で、自分は衆愚になりきる小賢しさでしかアニメを見ることができないと再認してしまいました(と自己言及するのも小賢しいですが)。そのディスコミュニケーションを隠蔽して、穏便に会話を終わらせました。正しいのかもしれませんが、監督に対してあまりに自分は嘘すぎる。

 パウル・クレーの造形思考を再読して、観察の方法論という点で科学的だと感じたのですが、クレーは、観察する「私」も範囲内なのが独特だと思いました。客体化する方法を科学と呼ぶなら二項対立的に主体も在るでしょうが、クレーはそのボーダーをまさぐっているように見えます。伊勢田監督は小学生の落書きがうごめくような絵なのですが、それ故にクレーのように真実であると感じるのはおかしいでしょうか? 本質的な意味でデッサンというものがわかりません。単に光学的な視覚の追従ではなく、認識機能として線描化した現実をえぐるような? 現実が表象として現れることによる決定的なディスコミュニケーションを求めているのかもしれません。

 自分は塾講師のアルバイトをしていて、仕事の最中にコミュニケーションの断絶を目の当たりにして、見えている現実も各々が違うものだと直観してしまい、子どもの成績を上げるという仕事を果たす点では絶望的な気持ちになるのですが、祝福にも見える。初歩的な作文ができない子や、分数の概念を理解できない子を見ると、「私」でも「社会」でもない何かを信じる気持ちになれますが、見世物小屋的な感性かもしれません。

 先日、元カレが新海誠を好きだった人たちへのインタビュー企画が中止になっていました。人を馬鹿にしているし、見世物にしているから下品だというのはもっともだと思うのですが、下品なのはそんなに悪でしょうか(多少の批判で折れる程度の態度だから余計にしょうもない、というのは置いておいて)。もちろん、自分が安易にカテゴライズされるのは不快だし、人種差別などの領域は論外ですが。大衆が下品でしょうもなく、我々もその一員であるという事実を隠蔽して、傷つきすぎるのは、苦しいものだと思います。タフであれ、と言い放つのは、マチズモだと批判されればその通りですが、伊勢田監督的な意味で、世界には「敵」で満ちているのに、偶然、ネットで目に入った煩いが一つ消えれば安らぐでしょうか?

 正直、自分もネットで本や映画の「感想」を見てしまうと、不愉快な気持ちにほぼ毎回なります。愚かで無礼な人が多すぎると思ってしまいます。感想に限らず、人が人へ情報を伝達しようとする動機はたいてい俗物的で、自分を不快にさせます。なら取れる手段は、自分が心地良いコミュニケーション以外を遮断していくか、大衆の中でサバイブするかしかないように思えます。自分はほとんど前者を選ぶようになってしまって、匿名掲示板や読書メーターやFilmarksなんかのアプリを消して、ツイッターでもブロックを多用しています。だけど、それは余計に逃げ場がない行為かもしれない。不躾で申し訳ないですが、鷲羽さんはすごく真面目で、ストイックに見えます。問題系や価値判断、それにまつわる人々とのコミットメントに真摯なゆえに、結論へ足掻こうとしているように感じます。

 悪い癖で、特にミステリ小説の「感想」を見てしまうと、安易な構図に飛びついて、紋切り型でカテゴライズする言説を目にしてしまいます。だけど、それらが不愉快なのは、同族嫌悪なのではないかと感じてきました。ミステリを読む快楽の一つは、記号化、類型化の上で、「知っていること」を繰り広げる、という機能にある事実が、おぞましく感じる。優れたミステリというのはその記号化する認識機能の縁をなで回し、されざるものが匂うものかもしれませんが、それはもはやミステリではないのかもしれない。そして、ミステリをわがままに拡張し、安易なカテゴライズとして「ミステリ」を利用することに他ならないのかもしれない。

 伊勢田勝行が素晴らしいのは、端的に言って、極めて記号的なのに記号同士のパッチワークに失敗していることにあると思います。だから、その違和が、主客の外部に見える。麻耶雄嵩など、理屈として面白がるのですが、大喜利的にミステリの内部で戯れるのは、辛く感じてきました。一方で、法月綸太郎を自分が楽しめるというのは、法月綸太郎がミステリであるためにミステリが破滅する臨界点を幻視させてくれるからなのかもしれない。

 「新本格ミステリ」が、本来は限定的な様式である「ミステリ」を再配置して破壊してみせる、という運動だったと考えてもいいのかもしれませんが、全体として記号がそれゆえに崩壊する様式を、楽しんでいるのかもしれません。たぶん、それが逃げ場だと勘違いしているんだと思います。

 鷲羽さんのスケッチの意志は、今の現実の目の前に立とうとしているように見えて、好ましく感じます。その態度が、文章を書くことも通底しているみたいです。

 とにかく、伊勢田監督にしても、鷲羽さんにしても、比べて自分は不真面目すぎると反省した次第です。手紙を出す、という行為からでも少しはマシになりたいですね。