くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『テクストの楽しみ』ロラン・バルト/『鏡の中は日曜日』殊能将之

 バルトはテクストを二種に分類する。

 楽しみのテクスト―満足させ、満たし、幸福感を与えるもの。文明からやって来て、文明と決裂することなく、読書の心地よい実践とむすばれるもの。

 歓びのテクスト―放心の状態におくもの、意気阻喪させるよの。読者の、歴史的、文明的、心理的な基底だとか、その趣味、その価値観、その記憶の一貫性を揺り動かすもの、読者と言語の関係を危機に落とし入れるもの。

 その視野のうちに二種のテクストを保つ人=アナクロニックな主体であり、あらゆる文明の快楽主義と文明の破壊に矛盾しつつ同時に参画する。

 このテクストの差は現代の作品が持つボーダーと対応していると思える。おとなしい、順応的な、剽窃からなるボーダーと、動いていて、空虚で、その結果生まれた場所でしかありえないボーダー。このボーダーの切断によって国語の再分配がなされる。

 これは挿話の文節に向かう読書=テクストのひろがりを考慮するが、言語の遊戯を知らない読書と、テクストの重さをはかり、それに接着する=論理的な発展や、真理の剥奪ではなく、生成する意味の薄層たる読書とも対応する。

 テクストはフェティッシュなオブジェである。そしてこのフェティッシュは私を欲望する。そしてあなたが書くテクストは、それが私を欲望する証拠を私に与えてくれなくてはならない。

テクストのただなかに見失われて、つねにそこには、他者としての作者がいる。

 制度としての作者は死んだ。作者の人格はもはや自分の作品に法外な父権を行使しない。

 一方で私は作者を欲望し、作者の像を必要とする(それは作者の表象でもなければその投影でもない)。

 イデオロギーのシステムはフィクションであり、ロマンである。

 言語の世界をパラノイアのたえざる甚大な諍いと考える。唯一、機略に富んだシステム(フィクション、口語)だけが生き延びて、最終的な像を製造する。諍いはいつでもコード化される。例えばサドのテクストはたえずそれ自身のコードを、それだけを創出し続ける。

 資本主義の権力の言語が、一見したところ、そのようなシステムのフィギュールを含まない

 資本主義の言語の圧力は、パラノイアや、システムや、論証性や、明証性の次元になく、仮借のないべとつくものであり、世論であり、無意識の手口であり、結局のところ、その本質においてイデオロギーである。

 テクストは口語でもなく、フィクションでもない。システムはテクストのなかで、フレームを越えられるか、解体される(この氾濫、この解体が、意味の生成である)。

 テクストはあらゆるメタ言語清算する。そのことにおいて、それはテクストたりうる。いかなる声も、テクストが語ることの背後にはない。それから、テクストは先の先にいたるまで、矛盾にいたるまで、みずからの論証的なカテゴリー、みずからの社会言語的なリファレンスを破壊する。

 このようなメタ言語を排除したテクストについて柄谷行人的な「ゲーデル的問題」を見出すことに違和はないと思える。むしろ上記のテクストの特徴こそ「ゲーデル的問題」そのものと言える。その意味で、制度としての作者の死は当然の帰結と言えるかもしれない。自己の意味を創出する「外部」の意味はもはや存在しない。外部としての父権はすでに失われている。

 一方でミステリにおいては作者は生存しているのではないか。外部としての父権、例えばソクラテスアイロニーや合法的恐怖といった論理の背反はミステリの方法そのものだ。しかし、ミステリがテクストに「擬態」している以上、テクストの自己言及性、すなわち「ゲーデル的問題」は不可避である。ならば、ミステリとは死したはずの父権を復活させるための儀式なのではないか。

 ミステリのテクストは特徴のみを書き出してしまえば、楽しみのテクストにのみ終始するかもしれない。しかし、「私達」は逆説的にそれのみに限定しない、ミステリにおける「歓び」を知っている。ミステリのテクストは確かにストーリーを語ることに特化しているかもしれないが、口語ではない。言文一致は未だに果たされていない。

 バルトによれば、神経症は書くことを許す最後の手段だ。そして、狂気のただなかで書かれ、そのテクストのうちに、もしそれが読まれることを欲するなら、読者を誘惑するのに必要な、ほんの少量の神経症を有する。この神経症は言語の混乱による。バベルの塔にてミステリは成立するのだろうか。

 人によってはそれは「叙述トリック」と言うのかもしれない。しかし、「叙述トリック」はむしろ言語の安寧に依拠しているのではないだろうか。例えばカフカ小島信夫のような「すべてが関係項となった世界」において叙述トリックは成立しない。すべての差異は論理の結露として無化され、純化される。「叙述トリック」とはそのような言語の混乱以前には存在できない直観がある。例えばダジャレやなぞなぞは言語を破壊しない。国語の堅牢さに腰を構え、そこをおちょくるプロセスだ。「叙述トリック」も自分は近い性質なのではないかと思える。もしも「叙述トリック」が国語を破壊するに至るなら、それは夢の論理である。モルグ街の殺人が「バベルの塔の混乱」がメインモチーフであることは示唆的かもしれない。後にミステリが失われた父権の復活に技巧を凝らすのに対して、モルグ街の殺人においては「バベルの塔の混乱」の後に非人間的な論理を要請して生まれたのではないだろうか。失われたはずのテクストの「外部」を人間以外のものに求めたわけだ。このアプローチはミステリよりもジャンルSFにおいて発展したかもしれない。SFにおいてメタファーは存在しない。なぜならSFとは「すべてが関係項となった世界」のメタファーとして成立するからだ。例えばレムのソラリスなどのように。

 作者への欲望は、ノックスの十戒ヴァン・ダインの二十即、あるいは読者への挑戦として現れたのだろうか。これはすべてが意味をなすパラノイアの世界への誘惑だ。バルトに倣えばロマンと呼んでも差し支えないかもしれない。

 現代という時代は交換から抜け出すためにたえざる努力(それは、マス・コミュニケーションの外へ出ること、意味の免除としての狂気、生殖という目的から歓びを引き離すための倒錯)であるとバルトは言う。そして交換はいっさいを回収する。

 マラルメは形式の徹底故に国語を破壊する。それはテクストの歓びでもある。ではミステリのテクストはいかなる歓びをもたらすのだろうか。

 『鏡の中は日曜日』においてミステリとマラルメはその形式性において比較される。そして『鏡の中は日曜日』は「ミステリ」の次元において、そのような形式性の徹底と破綻が果たされているのではないか。すなわち「テクストの歓び」であると。

 まず、冒頭の語りについて。模糊とした文体に見えるが、これは夢の論理ではない。確かに事実の誤認や記憶の混濁はあるが、当人なりの秩序だった論理に基づく世界であり、「父さん」のいる世界である。

 過去(劇中作)と現在が交互に語られるパートでは過去の形式性が解体される過程と言える。このような形式主義/解体のプロセスを見出すこと自体が、テクスト自体ではなく、その内部の自己言及性に依拠する極めてミステリ的な読みであることは注意したい。

 マラルメは形式化によってptyxを生み出し、鮎井は名探偵水城を生み出す。それは国語の破壊であり、(鮎井にとっての)現実の破壊であった。

 鮎井によって改ざん=形式化された世界はそれ自体の形式化によって破綻するのだろうか。例えば名探偵水城の推理がその内部の論理で決定不可能ないわゆる「後期クイーン問題」を導入するとか。そうではない。解体するのはそれ自体ではなく、「別の論理の挿入」である。いわば「ツェラン」を導入することかもしれない。

 現在において、登場人物たちは鮎井の形式化(単に類型化と言えるけど)から逸脱した生活を見せる。これは自己破綻ではなく、有り体に言えば俗世に揉まれた、というものだ。俗世/マラルメの対比においても俗世(マラルメのファッション趣味)を持ち出す自己言及ぶりはあるが、これは二項対立ではない。形式化ではないやり方として「ツェラン」を考えること。登場人物がそれ以外の方法で生きること。この別の論理の導入とはモルグ街の殺人で見た通り、ミステリの本質なのではないか。

 ミステリにおいて放心の場へ導くのはどのようなテクストだろうか。推理の要請はそれに反した行為のように見せる。だが、推理し続ける故に逆説的に推理し得ない場を想定できる。それは推理の外部ではなく、推理によってもたらされる「ゲーデル的」なものだ。だがミステリのテクストはテクストそれ自体の自己言及から逃れる故に「別のやり方」での思考が可能になる。むしろそれこそが「推理」と言えるかもしれない。

 父権の元で父権と戯れること。形式の内部で形式化されざるものを招くこと。テクストの外側に何もないのなら、内部に「それ以外」を導入する。その「それ以外」との衝突が我々を放心させる。これはミステリがそのテクスト内部に戯れることで可能なのかもしれない。