くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

少女☆歌劇 レヴュースタァライト 再生産するバナナイスマニエリスムからワイ(ル)ドスクリーンバロックへ

 人間とは地と天との間に存在する不滅なるもの。地上の諸存在の間にあってただ一つ、勢い熾んな炎のごとくに自らを超えて飛躍し、その活動をもって大地を支配し、諸元素に挑戦し、魔術を認識し、スピリトと交わり、万物を変形し、神の像を彫り上げる。固定された事物の中にあって、人間は不定なること、あたかも万物を灼き尽し、滅ぼし、またよみがえらせる火の如きものである。人間に一定の顔はない。なぜなら、人間はいかなる顔も持ちうるから。一定の形もない。すべての形をこわし、すべての形に生まれかわりうるからである。

『アスクレピウス』

 

 

先日、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が公開された。この劇場版において、舞台少女たちはオーディションにあらざるレヴューであるワイ(ル)ドスクリーンバロックによって、舞台少女の死を乗り越え、聖翔音楽学園から卒業していった。しかし、このワイ(ル)ドスクリーンバロックとは何だったのだろうか。 

 

ワイ(ル)ドスクリーンバロックと聞いて真っ先に連想するのは、恐らくワイドスクリーンバロックだろう。ワイドスクリーンバロックブライアン・オールディスが提唱したSFのサブジャンルであり、「時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄」な特徴を持つ。B級スペースオペラの意匠を借りたスペキュレイティブフィクションとも言い換えられるだろうか。チャールズ・L・ハーネスやアルフレッド・ベスタ―、バリントン・J・ベイリーなどが代表的である。アニメならば『天元突破グレンラガン』などを例として挙げられるかもしれない。

しかし、『レヴュースタァライト』はワイドスクリーンバロックに分類できるだろうか。思弁性については認めることができるかもしれない。だが、リアリズムに則っていないとはいえ、「キラめき」やレヴューシーン、ループなどをSFとして解釈するのは苦しい。仮にこれらの超常現象をSF的な要素として認めても、あくまでスケールは学園の範囲内であり、しかも学園生活パートとは分離されているため、やはり『レヴュースタァライト』はワイドスクリーンバロックである、と断言するには違和感がある。

そこで、ワイドスクリーンバロックが成立した経緯について考えてみたい。ワイドスクリーンバロックは1960年代のニュー・ウェーブ運動の影響を多分に受けて成立している、というよりニュー・ウェーブSFのサブジャンルとして捉えられる。ニュー・ウェーブはSF作家でもあるマイクル・ムアコックが編集長を勤めていた『ニュー・ワールズ』誌を中心として、SFに文学性や芸術性を取り入れようとする運動であった。このSF的なジャンクなガジェットやクリシェと思弁性との融合を目的とした文学的な実験の流れの中に、ワイドスクリーンバロックは位置しており、アルフレッド・ベスタ―やサミュエル・R・ディレイニーカート・ヴォネガットらはニュー・ウェーブ運動の代表的な作家であると同時にワイドスクリーンバロック的な作品も書いている。

このワイドスクリーンバロック≒ニュー・ウェーブの成立した過程を見ると、『レヴュースタァライト』にも似たような形式が認められるのではないだろうか。ニュー・ウェーブがSFに内包されていなかった文学性を取り入れたように、『レヴュースタァライト』は『ラブライブ』のような美少女アニメのフォーマットから取り除かれていた別の文脈を取り込んだのではないだろうか。

TV版の『レヴュースタァライト』において、最もインパクトがあり、わかりやすいSF的なガジェットは大場ななのループだろう。しかしこのループはあくまで美少女アニメ当番回の範疇として回収される。ここでのループのストーリー上の役割は、過去の「キラめき」へ執着する大場ななの掘り下げや強調がメインであり、もはやメタファー以上の役割はほとんどない。(もっとも、メタファーと現実に起こったことを区別しないことは極めてニュー・ウェーブSF的な技法ではあるが)

また舞台少女たちの人物造形も、かなり美少女アニメ的でわかりやすく類型的だ。これはつまらない人物設定だと批判しているのではなく、美少女アニメ的なフォーマットに意識的、自覚的であり従順だということの指摘だ。このような美少女アニメへの忠実さを見せる一方で、これから零れかねない要素が多数置かれている。逆に言えばあくまでギリギリ美少女アニメから逸脱しないバランスだ。武器を持って戦い、奇抜で派手なレヴューを繰り広げても、あくまで舞台少女は戦闘美少女ではなく、『ラブライブ』のようなアイドル的美少女の範疇のままである。

このような構成は『レヴュースタァライト』の監督である古川知宏の師匠筋にあたる幾原邦彦の『少女革命ウテナ』や、監督が影響を公言している庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』などにも見られる。『ウテナ』では古典的少女マンガのようなフォーマットにこれと対立しかねないアングラ演劇要素が取り入れられ、『エヴァ』ではロボットアニメのフォーマットで話を進めながら、最終的にアニメであることさえ破綻させようとするに至った。

これらに共通する、フォーマットとそれを破壊しかねない別の文脈の流入、劇的で派手な演出に対して、バロックが想起される。

バロックは秩序や比例においてある種の完成を見せたルネサンスへのアンチテーゼとして位置づけられ、歪なフォルムや直截的でわかりやすく情動的な効果を特徴としている。なるほど、確かにワイ(ル)ドスクリーンバロックバロック性は認められそうである。しかし、オーディションではないワイ(ル)ドスクリーンバロックバロック的なものであるなら、オーディションであったTV版のレヴューはどのような位置づけが出来るだろうか。

これを考えるに当って、劇場版のワイ(ル)ドスクリーンバロック開始直前のキリンを思い出したい。全身が野菜で構成されたキリンは恐らくアルチンボルドの絵画が元ネタになっていそうだ。そしてアルチンボルドバロックの前段階、マニエリスムの画家として位置づけられている。

 

マニエリスムルネサンスバロックの中間に位置する。もっともマニエリスムの画家は自分をマニエリストであるとは考えていなかった。マニエリスムとは、ルネサンスの比例と均衡において完成を見た美の形式、様式の模倣を徹底した結果、もはやルネサンス的な精神から離脱していった芸術様式を指す。マニエリストたちは、ミケランジェロを代表とする、もはや自然よりも自然らしく美しい偉大な先例を無視することができず、ゆえに先例を模倣、洗練させようとした。よってマニエリスムの様式は、作品のつぎはぎや、無数の引用、暗喩、寓意を特徴としている。

このような精神は16世紀に限らず、レディー・メイドのものから成り立っているすべての芸術についても言える。そして重要なのは、マニエリスムルネサンスの延長でありながら中世的伝統を呼び起こし、そしてアンチルネサンスではないことだ。

このような様式は『レヴュースタァライト』にも強く当てはまる。『レヴュースタァライト』は偉大な先例、『ウテナ』にしても『エヴァ』にしても『ラブライブ』にしても、その影響を疑う者はいないだろう。『レヴュースタァライト』の独自性を特徴付けているのは、これらの先行作品のつぎはぎの方法である。9人の美少女たちが歌や踊りで切磋琢磨する、というストーリーは、一話ごとに一人の舞台少女にフォーカスを当てて話を回す、いわゆる当番制も相まって、極めて男性若年層向けの美少女アニメとしてオーソドックスな構造である。一方で先に述べたように、その切磋琢磨が武器で戦い合うこと、キリンやオーディションといった超常現象や、無機物の運動を強調した演出など、美少女アニメから逸脱しかねない要素を内包している。しかし、決定的に、『レヴュースタァライト』は決してアンチ美少女アニメではない。

この精神が一番わかりやすいのは、再生産バンクだろう。落下する愛城華恋のバックにロシア構成主義を彷彿とさせるような「アタシ再生産」のタイポグラフィが表れ、髪飾りが溶解し、工業機械が駆動する。舞台衣装が縫製され、身に纏う一連のシーンは、美少女アニメのキャラクターから無機質なグラフィックや運動によって戦闘美少女として読み替えられかねない揺らぎ=変身が色濃く表れている。そして、ロシア構成主義や工業機械、マニエリスムに通底するのが、再生産である。

 

劇中劇である戯曲「スタァライト」は13世紀フランスの寓意物語である、『薔薇物語』がモチーフだと思われる。愛し合う二人の性格、内心が擬人化された、歓楽、純潔、恐れ、羞恥などが暮らしている愛の庭園を訪れた詩人が、薔薇に恋をする。番人たちが邪魔をするが、困難を乗り越え、詩人が薔薇に口づけすると、薔薇は閉じ込められてしまい、詩人は嘆くという物語だ。マニエリスムがこのような中世のアレゴリーの技法をルネサンスの延長線上で融和したように、『レヴュースタァライト』は古典である「スタァライト」を再演する。この読み替え=再生産=マニエリスムの結果、「スタァライト」の登場人物が増え、結末も変更するなど、古典に対する歪みが生じることとなった。さらに興味深いのは、この歪みが生じたのは、原本の翻訳、すなわち形式への徹底化によって引き起こされたことだ。『レヴュースタァライト』における「運命の舞台」が再生産されたのも、舞台の上にスタァは一人、を二人で一人のスタァとして読み替えたためだ。このようにTV版の「レヴュースタァライト」は極めてマニエリスム的な方法に意識的な作品であったことがわかる。そして、そのマニエリスム的な精神を最も強く体現しているのが、大場ななである。

 

大場ななは、初めてみんなで作り上げた舞台である第99回聖翔祭の「スタァライト」の体験を再び渇望し、何度も同じ一年を繰り返している、というキャラクターだ。このモチベーションはかなりマニエリスム的なもの、つまり『レヴュースタァライト』を体現していると言っても過言ではない。

マニエリスムの本質は、自然よりも美しいものを作り出した巨匠を模倣し、構成要素を取り出して合成することである。すなわちルネサンスの規範を完璧たらしめ、不朽のものとせしめる=過去の目で現在を見続けることだ。大場ななの「再演」は、もはや完成してしまった99回聖翔祭の「スタァライト」を読み替え、洗練させることを目的としている。大場ななは99回聖翔祭の「スタァライト」に執着はするが、この舞台を再現することではなく、この体験を再び渇望している。これは99回の舞台を再現するにはイレギュラーである神楽ひかりを、舞台を洗練させるために歓迎したことからも明らかだ。そしてこのマニエリスム的再生産から始まった「再演」はその方法の結果として、全く別の「スタァライト」へとたどり着くことになる。

大場ななは過去のキラめきの再生産だけではなく、新しい舞台を求めていた自分も受け入れ、第100回の聖翔祭に臨むこととなる。

ではビジュアル的なマニエリスムを体現していたキリンはどうだろうか。キリンの目的は舞台少女のキラめきを燃やした運命の舞台を見ることであり、マニエリスム的な精神は感じられない。しかし、キリンは舞台少女=芸術家の側ではなく、主催者であり観劇者である。マニエリスム的精神で作成された作品の鑑賞は、知性によってなされる。つまり散りばめられた引用やアレゴリーを読み解き巨匠からえた感動を再び呼び覚ますことだ。そしてこれは、恐らくキリンにも当てはまる。少なくとも、TV版から劇場版が構成される際、再び続きを望んだ観客である我々=キリンにとって違和感はないはずだ。

 

マニエリスムを体現していた大場ななのこの変化と、同じくマニエリスムを解する観客であるキリンの燃焼によって「皆殺しのレヴュー」から始まるワイ(ル)ドスクリーンバロックが行われる。そしてこれがもはやオーディションではないのも頷ける。オーディションとは舞台を再生産するための手法=マニエラである。TV版ではその手法のための手法が大きな位置を占めていたが、大場ななとキリンの変化によってマニエリスム的な精神が変化した以上『レヴュースタァライト』も変化せざるをえない。人工物の再生産の産物であるマニエリスムは変化し、自然が明晰な姿を横たえる世界、ワイ(ル)ドスクリーンバロックが始まる。

このワイ(ル)ドスクリーンバロックではオーディションどころか、前掛けを落とすルールさえも存在しない。様式の向こうで舞台少女たちは自然な舞台少女としての感情をぶつけ合う。

バロックは錯綜し難解となったアレゴリーから決別し、大衆的で自然発生的でセンチメンタルな表現を特徴としている。劇場版においても、抽象観念をイメージ化し、引用や寓意に満ちたワイ(ル)ドスクリーンバロックマニエリスム的なままだ。しかし、あらゆる表現がもはやマニエリスム的手法を逃れられない現在、重要なのは何を目的にどのように表現したか、である。バロックは近代を安定した形で自分たちのコントラクションを固める=新勢力が旧勢力を追い落とす点を特徴とする。ルネサンスの延長として意識していたマニエリストたちと異なり、バロックの画家たちは明確に自らがバロックの運動の中にいることを自覚していた。この精神の変化は、マニエラの再生産への執着から自然な感情を発露するようになった大場ななの変化と同様である。自然さ=舞台少女としての自分を取り戻し、新しい舞台へ立つための総括であるワイ(ル)ドスクリーンバロックは、依然マニエリスム的技法を駆使しながらも、その存在の在り方は極めてバロック的なものなのだ。

 

TV版においてオーディション=マニエラの再生産を目的としていたレヴューは、劇場版において自然=ワイルドな自分に立ち返り新しい舞台へ進むことを目的としている。ワイドスクリーンバロックを彷彿とさせる名前も、ワイドスクリーンバロックとしてカテゴライズされることが目的ではなく、ワイドスクリーンバロックの方法を取り入れたことを示しているものだと思われる。

バロックの精神が示しているものは、過去への羨望ではなく新しい未来の始まりであり、そして卒業した舞台少女は新しい舞台に立つのだ。