くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

虹ノ咲だいあの破綻と閉塞

結論から言って、キラッとプリ☆チャンは、虹ノ咲だいあの物語であったと断言しても過言ではない。特に二期では、服飾や歌唱の才能を持ちながら極度に内気な少女、虹ノ咲だいあとバーチャルプリチャンアイドルだいあの正体と変化が主軸となっていた。しかし、この「キラッとプリ☆チャン」という作品全体の中で、虹ノ咲だいあはどのような役割を果たしていたのだろうか。

 

キラッとプリ☆チャン」には大まかなストーリーのフォーマットが存在する。主人公たちが身の回りのキラッとしたものを発見、配信し、その動画にいいねが集まることでアイドルとしてライブをする。また1クールの終わりごとに大会があり、そこでライブを披露し、多くのいいねを集めて優勝すると、特別なコーデが貰えるというものだ。しかし、このフォーマットには問題があった。率直に言ってしまえば破綻している。

一つは、ライブの位置づけだ。ここでライブは、いいねを集めたご褒美として配信パートとは独立して存在している。キャッチコピーでもある、「やってみなくちゃわからない、わからなかったらやってみよう」と視聴者から承認を得なければライブを行えない設定は相性が悪く、配信でいいねを貰えたことと、ライブをすることにストーリー的繋がりをもたせるのが困難であった。

次に、大会の存在だ。大会では、視聴者に加えてデザイナーズと呼ばれるある種の権威による承認を競うものだ。しかし、配信後のライブに登場人物の積極的なモチベーションが存在しないように、大会のライブへのモチベーションも存在しない。主人公たちのチームであるミラクルキラッツにとって、ライブや特別なコーデもせいぜい自分の周囲のキラッとしたものの中の一つであり、大会に参加する積極的な意味を持っていない。その結果、ライバルチームであるメルティックスターのライブや大会に対する高いモチベーションは三期に至るまで空転し続け、キラッとしたものを並列的に扱う主人公は、そうなんだ桃山と呼ばれるだけでなく、サイコパスやアンドロイドと揶揄された。キラッツが目標や目的を持つことはないにも関わらず大会に勝利し続けることで、ますます大会の存在意義が消えることになった。

しかし、虹ノ咲だいあによってその構造は反転する。虹ノ咲だいあはプリチャンの配信ではなく、ご褒美であるはずのライブとコーデを目的として活動する。ライブを重視するのはある意味メルティックスター的だが、虹ノ咲だいあの場合、ライブのために配信をすることにほとんど興味を示していない。虹ノ咲だいあにとってライブはプリチャン、プリチャンアイドルへの憧れの象徴そのものであり、コーデは自分を表現し、他人と繋がるための手段だった。その結果、漂泊していたライブとコーデの意義がプリチャンアイドルではない一般人の目線で価値あるものとして引き直されることになった。逆にライブ自体の価値がフィーチャーされることで、第89話「聖夜はみんなで!ジュエルかがやくクリスマス!だもん!」において、虹ノ咲だいあのカミングアウト後、ライブが可能になるほどのいいねが集まるシーンは、承認によるご褒美としてのライブの祝祭性を強調することにも繋がった。

そして大会であるが、ここに「キラッとプリ☆チャン」二期の最も大胆でエレガントな転倒がある。特別なコーデを得るために参加者が競い合い、その結果キラッツが勝利してきた大会を、特別なコーデを与えるために参加者を競い合わせた八百長であると読み直したことだ。

虹ノ咲だいあが大会を開催するまでに至る経緯を描いた第76話「キラにちは!だいあとだいあが出会った日、だもん!」はもはや、犯人の独白かヴィラン誕生秘話といった趣だ。コーデを与えれば友達になれると考えた内気な少女が、桃山みらいたちプリチャンアイドルに憧れ、友達をオーディションするために大会を開催する。ライブ、大会、コーデに積極的な価値を与えた見事な設定だ。そして配信を通してアイドルたちと交流する中で、すでに友達となっていたことに気が付く。

一期では大会自体に価値を与えた結果、存在意義があやふやになっていた。対して、二期では手段として大会を私的に利用しつつも、大会を通じて友情を育むことによって大会自体にも価値があったことを認める構造となっている。

このように虹ノ咲だいあはプリチャン的な物語を反転させ、支配する存在であったが、同時に視聴者のアバターでもあった。

虹ノ咲だいあは視聴者である。虹ノ咲だいあは桃山みらいを見ることをきっかけにプリチャンに興味を持つ。妙にドライで淡泊でよくわからない人物であった桃山みらいに憧れを見出した虹ノ咲だいあの視点を通して、テレビの前の視聴者も桃山みらいの輝きを発見する。そしてそのプロセスは、「だいあ」の動向を主軸として「キラッとプリ☆チャン」を語りなおした二期そのものの構図だ。根暗でコミュ障なキモいオタクが虹ノ咲だいあに感情移入しやすいというだけではない。「キラッとプリ☆チャン」はインターネットの配信をテーマとしながらも、場所や交流が主人公たちの近所から離れることはなかった。これは単に地理的な意味ではなく、変化や発見を与える未知の場所が存在しないという意味だ。桃山みらいたちは様々な場所に出かけ、様々な人々と出会いながらも変わることがなく、刹那的にキラッとしたものを見つけ続ける。この「キラッとプリ☆チャン」の閉塞感はコーデやプリチャンなど輝かしいものを見つけながらも変わることができず、薄暗い部屋の中八画面で桃山みらいを見ていた虹ノ咲だいあの閉塞感と同じ種類のものだ。配信の積み重ねの向こうには何もなく、ライブにも大会にもコーデにもたいした価値はない。「キラッとプリ☆チャン」が「キラッとプリ☆チャン」である以上、逃れられない構造だった。しかし、虹ノ咲だいあはその構造をハックした。虹ノ咲だいあは配信の、ライブの、コーデの、大会の、桃山みらいの、「キラッとプリ☆チャン」の価値を発見した。そしてその瞳を通してまた視聴者も、「キラッとプリ☆チャン」の価値を発見したのだ。

キラッとプリ☆チャン」はとりてて名作とも傑作とも言い難い。配信、ライブ、大会の齟齬は最後まで依然として存在し続け、三期では舞台が遊園地に限定されることで更に齟齬は増大した。設定や描写の矛盾や不足も多く、ストーリー投げやりだ。

しかし、虹ノ咲だいあが桃山みらいを見つめたように自分は虹ノ咲だいあを見た。虹ノ咲だいあは破綻と閉塞の中で抗い、価値を与え、瞳をさらけ出した。少なくとも自分は虹ノ咲だいあの存在していた「キラッとプリ☆チャン」を凡作と切り捨てることはできない。