つまり、①理性に基づく科学的明晰性が、②悪夢と幻覚に敗北する物語である。
物語はとある男の体験したことを綴った手記の体裁で始まる。漂流していたその男が謎のぬかるみに座礁し、存在しないはずの人工物や巨人を目撃するという話だ。
まず①について。語り手の言動は理知的なものとして描写されている。例えば、漂流中に星の位置で緯度経度を推測しようとする(失敗するが)、突如現れたぬかるみに対しては火山の隆起によるのではないか、と仮説を立て、積極的に探索を行う、ぬかるみや発見したモノリスもスケッチ的につぶさに描写している。加えて何度も自分の狂気や幻覚を疑う程度の理性が強調されている。
また、固有名詞の多用も文章の明晰性、というよりも具体性に寄与している。失楽園やドレ、ポー、プルワーなど文学、芸術方面の言及や、ポリュフェマスや古代フェリシテ人のダゴンなど民俗学的方面、ピルトダウン人やネアンデルタール人など考古学的な方面でのアプローチが、語りにはっきりした輪郭を与えている。
一方で②について。「ダゴン」は上記のような明晰性を疑わせる構造になっている。
第一に語り手は手記の記述時にはモルヒネ中毒であり、肉体的、精神的に疲労しきっていると明かされ、この手記の信憑性にゆらぎがある状態で、男の語る体験を読むことになる。また、奇妙な出来事に遭遇する決定的瞬間、ぬかるみの隆起は男の睡眠中に起こり、モノリス、巨人の発見のときは悪夢にうなされた後、日中では躊躇していた探索を行ったことで起きている。意図的に夢と現実の中間で起きているわけだ。逆に日常への帰還も狂気の後に、アメリカの病院での「目覚める」ことで果たされている。
このような明晰性と曖昧性が互いに侵食し合い、揺さぶり合いながら進行していくわけだ。
余談ですけど、ラヴクラフトの時代では考古学的知識として引き合いにだされていたピルトダウン人は現在では捏造であることが知られている。今の視点から見ると、考古学的学識にかなりの影響を与えながら虚構の存在であったピルトダウン人は、明晰性=現実と曖昧性=虚構が相互に侵犯する、かなりラヴクラフト的な存在じゃなかろうか。
そしてラスト。自分の体験が現実と虚構の間で宙づりになっていた語り手は、ついに決定的「何か」を知覚して絶叫する。ここのポイントは、語り手の手記、回想として出発していたこの「ダゴン」というテキストがいつの間にか、ほとんど語り手の独白、実況になっていることだ。決定的「何か」の知覚によって語り手の理性に裏付けられた現実=前提が崩壊するのと同時に、このテキストは語り手の手記である、という読者にとっての現実=前提も崩壊するわけだ。素晴らしい。
というわけで、思いのほかフィジカルな恐怖に訴えるラヴクラフト作品が多い中、「ラヴクラフト」的なものを読みたい人に勧めるのに最適ではないだろうか。短くて読むの楽だし。
でも一番好きなのは宇宙からの色です。