くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『テクストの楽しみ』ロラン・バルト/『鏡の中は日曜日』殊能将之

 バルトはテクストを二種に分類する。

 楽しみのテクスト―満足させ、満たし、幸福感を与えるもの。文明からやって来て、文明と決裂することなく、読書の心地よい実践とむすばれるもの。

 歓びのテクスト―放心の状態におくもの、意気阻喪させるよの。読者の、歴史的、文明的、心理的な基底だとか、その趣味、その価値観、その記憶の一貫性を揺り動かすもの、読者と言語の関係を危機に落とし入れるもの。

 その視野のうちに二種のテクストを保つ人=アナクロニックな主体であり、あらゆる文明の快楽主義と文明の破壊に矛盾しつつ同時に参画する。

 このテクストの差は現代の作品が持つボーダーと対応していると思える。おとなしい、順応的な、剽窃からなるボーダーと、動いていて、空虚で、その結果生まれた場所でしかありえないボーダー。このボーダーの切断によって国語の再分配がなされる。

 これは挿話の文節に向かう読書=テクストのひろがりを考慮するが、言語の遊戯を知らない読書と、テクストの重さをはかり、それに接着する=論理的な発展や、真理の剥奪ではなく、生成する意味の薄層たる読書とも対応する。

 テクストはフェティッシュなオブジェである。そしてこのフェティッシュは私を欲望する。そしてあなたが書くテクストは、それが私を欲望する証拠を私に与えてくれなくてはならない。

テクストのただなかに見失われて、つねにそこには、他者としての作者がいる。

 制度としての作者は死んだ。作者の人格はもはや自分の作品に法外な父権を行使しない。

 一方で私は作者を欲望し、作者の像を必要とする(それは作者の表象でもなければその投影でもない)。

 イデオロギーのシステムはフィクションであり、ロマンである。

 言語の世界をパラノイアのたえざる甚大な諍いと考える。唯一、機略に富んだシステム(フィクション、口語)だけが生き延びて、最終的な像を製造する。諍いはいつでもコード化される。例えばサドのテクストはたえずそれ自身のコードを、それだけを創出し続ける。

 資本主義の権力の言語が、一見したところ、そのようなシステムのフィギュールを含まない

 資本主義の言語の圧力は、パラノイアや、システムや、論証性や、明証性の次元になく、仮借のないべとつくものであり、世論であり、無意識の手口であり、結局のところ、その本質においてイデオロギーである。

 テクストは口語でもなく、フィクションでもない。システムはテクストのなかで、フレームを越えられるか、解体される(この氾濫、この解体が、意味の生成である)。

 テクストはあらゆるメタ言語清算する。そのことにおいて、それはテクストたりうる。いかなる声も、テクストが語ることの背後にはない。それから、テクストは先の先にいたるまで、矛盾にいたるまで、みずからの論証的なカテゴリー、みずからの社会言語的なリファレンスを破壊する。

 このようなメタ言語を排除したテクストについて柄谷行人的な「ゲーデル的問題」を見出すことに違和はないと思える。むしろ上記のテクストの特徴こそ「ゲーデル的問題」そのものと言える。その意味で、制度としての作者の死は当然の帰結と言えるかもしれない。自己の意味を創出する「外部」の意味はもはや存在しない。外部としての父権はすでに失われている。

 一方でミステリにおいては作者は生存しているのではないか。外部としての父権、例えばソクラテスアイロニーや合法的恐怖といった論理の背反はミステリの方法そのものだ。しかし、ミステリがテクストに「擬態」している以上、テクストの自己言及性、すなわち「ゲーデル的問題」は不可避である。ならば、ミステリとは死したはずの父権を復活させるための儀式なのではないか。

 ミステリのテクストは特徴のみを書き出してしまえば、楽しみのテクストにのみ終始するかもしれない。しかし、「私達」は逆説的にそれのみに限定しない、ミステリにおける「歓び」を知っている。ミステリのテクストは確かにストーリーを語ることに特化しているかもしれないが、口語ではない。言文一致は未だに果たされていない。

 バルトによれば、神経症は書くことを許す最後の手段だ。そして、狂気のただなかで書かれ、そのテクストのうちに、もしそれが読まれることを欲するなら、読者を誘惑するのに必要な、ほんの少量の神経症を有する。この神経症は言語の混乱による。バベルの塔にてミステリは成立するのだろうか。

 人によってはそれは「叙述トリック」と言うのかもしれない。しかし、「叙述トリック」はむしろ言語の安寧に依拠しているのではないだろうか。例えばカフカ小島信夫のような「すべてが関係項となった世界」において叙述トリックは成立しない。すべての差異は論理の結露として無化され、純化される。「叙述トリック」とはそのような言語の混乱以前には存在できない直観がある。例えばダジャレやなぞなぞは言語を破壊しない。国語の堅牢さに腰を構え、そこをおちょくるプロセスだ。「叙述トリック」も自分は近い性質なのではないかと思える。もしも「叙述トリック」が国語を破壊するに至るなら、それは夢の論理である。モルグ街の殺人が「バベルの塔の混乱」がメインモチーフであることは示唆的かもしれない。後にミステリが失われた父権の復活に技巧を凝らすのに対して、モルグ街の殺人においては「バベルの塔の混乱」の後に非人間的な論理を要請して生まれたのではないだろうか。失われたはずのテクストの「外部」を人間以外のものに求めたわけだ。このアプローチはミステリよりもジャンルSFにおいて発展したかもしれない。SFにおいてメタファーは存在しない。なぜならSFとは「すべてが関係項となった世界」のメタファーとして成立するからだ。例えばレムのソラリスなどのように。

 作者への欲望は、ノックスの十戒ヴァン・ダインの二十即、あるいは読者への挑戦として現れたのだろうか。これはすべてが意味をなすパラノイアの世界への誘惑だ。バルトに倣えばロマンと呼んでも差し支えないかもしれない。

 現代という時代は交換から抜け出すためにたえざる努力(それは、マス・コミュニケーションの外へ出ること、意味の免除としての狂気、生殖という目的から歓びを引き離すための倒錯)であるとバルトは言う。そして交換はいっさいを回収する。

 マラルメは形式の徹底故に国語を破壊する。それはテクストの歓びでもある。ではミステリのテクストはいかなる歓びをもたらすのだろうか。

 『鏡の中は日曜日』においてミステリとマラルメはその形式性において比較される。そして『鏡の中は日曜日』は「ミステリ」の次元において、そのような形式性の徹底と破綻が果たされているのではないか。すなわち「テクストの歓び」であると。

 まず、冒頭の語りについて。模糊とした文体に見えるが、これは夢の論理ではない。確かに事実の誤認や記憶の混濁はあるが、当人なりの秩序だった論理に基づく世界であり、「父さん」のいる世界である。

 過去(劇中作)と現在が交互に語られるパートでは過去の形式性が解体される過程と言える。このような形式主義/解体のプロセスを見出すこと自体が、テクスト自体ではなく、その内部の自己言及性に依拠する極めてミステリ的な読みであることは注意したい。

 マラルメは形式化によってptyxを生み出し、鮎井は名探偵水城を生み出す。それは国語の破壊であり、(鮎井にとっての)現実の破壊であった。

 鮎井によって改ざん=形式化された世界はそれ自体の形式化によって破綻するのだろうか。例えば名探偵水城の推理がその内部の論理で決定不可能ないわゆる「後期クイーン問題」を導入するとか。そうではない。解体するのはそれ自体ではなく、「別の論理の挿入」である。いわば「ツェラン」を導入することかもしれない。

 現在において、登場人物たちは鮎井の形式化(単に類型化と言えるけど)から逸脱した生活を見せる。これは自己破綻ではなく、有り体に言えば俗世に揉まれた、というものだ。俗世/マラルメの対比においても俗世(マラルメのファッション趣味)を持ち出す自己言及ぶりはあるが、これは二項対立ではない。形式化ではないやり方として「ツェラン」を考えること。登場人物がそれ以外の方法で生きること。この別の論理の導入とはモルグ街の殺人で見た通り、ミステリの本質なのではないか。

 ミステリにおいて放心の場へ導くのはどのようなテクストだろうか。推理の要請はそれに反した行為のように見せる。だが、推理し続ける故に逆説的に推理し得ない場を想定できる。それは推理の外部ではなく、推理によってもたらされる「ゲーデル的」なものだ。だがミステリのテクストはテクストそれ自体の自己言及から逃れる故に「別のやり方」での思考が可能になる。むしろそれこそが「推理」と言えるかもしれない。

 父権の元で父権と戯れること。形式の内部で形式化されざるものを招くこと。テクストの外側に何もないのなら、内部に「それ以外」を導入する。その「それ以外」との衝突が我々を放心させる。これはミステリがそのテクスト内部に戯れることで可能なのかもしれない。

Diary 『テクストの楽しみ』ロラン・バルト/『鏡の中は日曜日』殊能将之

 バルトはテクストを二種に分類する。

 楽しみのテクスト―満足させ、満たし、幸福感を与えるもの。文明からやって来て、文明と決裂することなく、読書の心地よい実践とむすばれるもの。

 歓びのテクスト―放心の状態におくもの、意気阻喪させるよの。読者の、歴史的、文明的、心理的な基底だとか、その趣味、その価値観、その記憶の一貫性を揺り動かすもの、読者と言語の関係を危機に落とし入れるもの。

 その視野のうちに二種のテクストを保つ人=アナクロニックな主体であり、あらゆる文明の快楽主義と文明の破壊に矛盾しつつ同時に参画する。

 このテクストの差は現代の作品が持つボーダーと対応していると思える。おとなしい、順応的な、剽窃からなるボーダーと、動いていて、空虚で、その結果生まれた場所でしかありえないボーダー。このボーダーの切断によって国語の再分配がなされる。

 これは挿話の文節に向かう読書=テクストのひろがりを考慮するが、言語の遊戯を知らない読書と、テクストの重さをはかり、それに接着する=論理的な発展や、真理の剥奪ではなく、生成する意味の薄層たる読書とも対応する。

 テクストはフェティッシュなオブジェである。そしてこのフェティッシュは私を欲望する。そしてあなたが書くテクストは、それが私を欲望する証拠を私に与えてくれなくてはならない。

テクストのただなかに見失われて、つねにそこには、他者としての作者がいる。

 制度としての作者は死んだ。作者の人格はもはや自分の作品に法外な父権を行使しない。

 一方で私は作者を欲望し、作者の像を必要とする(それは作者の表象でもなければその投影でもない)。

 イデオロギーのシステムはフィクションであり、ロマンである。

 言語の世界をパラノイアのたえざる甚大な諍いと考える。唯一、機略に富んだシステム(フィクション、口語)だけが生き延びて、最終的な像を製造する。諍いはいつでもコード化される。例えばサドのテクストはたえずそれ自身のコードを、それだけを創出し続ける。

 資本主義の権力の言語が、一見したところ、そのようなシステムのフィギュールを含まない

 資本主義の言語の圧力は、パラノイアや、システムや、論証性や、明証性の次元になく、仮借のないべとつくものであり、世論であり、無意識の手口であり、結局のところ、その本質においてイデオロギーである。

 テクストは口語でもなく、フィクションでもない。システムはテクストのなかで、フレームを越えられるか、解体される(この氾濫、この解体が、意味の生成である)。

 テクストはあらゆるメタ言語清算する。そのことにおいて、それはテクストたりうる。いかなる声も、テクストが語ることの背後にはない。それから、テクストは先の先にいたるまで、矛盾にいたるまで、みずからの論証的なカテゴリー、みずからの社会言語的なリファレンスを破壊する。

 このようなメタ言語を排除したテクストについて柄谷行人的な「ゲーデル的問題」を見出すことに違和はないと思える。むしろ上記のテクストの特徴こそ「ゲーデル的問題」そのものと言える。その意味で、制度としての作者の死は当然の帰結と言えるかもしれない。自己の意味を創出する「外部」の意味はもはや存在しない。外部としての父権はすでに失われている。

 一方でミステリにおいては作者は生存しているのではないか。外部としての父権、例えばソクラテスアイロニーや合法的恐怖といった論理の背反はミステリの方法そのものだ。しかし、ミステリがテクストに「擬態」している以上、テクストの自己言及性、すなわち「ゲーデル的問題」は不可避である。ならば、ミステリとは死したはずの父権を復活させるための儀式なのではないか。

 ミステリのテクストは特徴のみを書き出してしまえば、楽しみのテクストにのみ終始するかもしれない。しかし、「私達」は逆説的にそれのみに限定しない、ミステリにおける「歓び」を知っている。ミステリのテクストは確かにストーリーを語ることに特化しているかもしれないが、口語ではない。言文一致は未だに果たされていない。

 バルトによれば、神経症は書くことを許す最後の手段だ。そして、狂気のただなかで書かれ、そのテクストのうちに、もしそれが読まれることを欲するなら、読者を誘惑するのに必要な、ほんの少量の神経症を有する。この神経症は言語の混乱による。バベルの塔にてミステリは成立するのだろうか。

 人によってはそれは「叙述トリック」と言うのかもしれない。しかし、「叙述トリック」はむしろ言語の安寧に依拠しているのではないだろうか。例えばカフカ小島信夫のような「すべてが関係項となった世界」において叙述トリックは成立しない。すべての差異は論理の結露として無化され、純化される。「叙述トリック」とはそのような言語の混乱以前には存在できない直観がある。例えばダジャレやなぞなぞは言語を破壊しない。国語の堅牢さに腰を構え、そこをおちょくるプロセスだ。「叙述トリック」も自分は近い性質なのではないかと思える。もしも「叙述トリック」が国語を破壊するに至るなら、それは夢の論理である。モルグ街の殺人が「バベルの塔の混乱」がメインモチーフであることは示唆的かもしれない。後にミステリが失われた父権の復活に技巧を凝らすのに対して、モルグ街の殺人においては「バベルの塔の混乱」の後に非人間的な論理を要請して生まれたのではないだろうか。失われたはずのテクストの「外部」を人間以外のものに求めたわけだ。このアプローチはミステリよりもジャンルSFにおいて発展したかもしれない。SFにおいてメタファーは存在しない。なぜならSFとは「すべてが関係項となった世界」のメタファーとして成立するからだ。例えばレムのソラリスなどのように。

 作者への欲望は、ノックスの十戒ヴァン・ダインの二十即、あるいは読者への挑戦として現れたのだろうか。これはすべてが意味をなすパラノイアの世界への誘惑だ。バルトに倣えばロマンと呼んでも差し支えないかもしれない。

 現代という時代は交換から抜け出すためにたえざる努力(それは、マス・コミュニケーションの外へ出ること、意味の免除としての狂気、生殖という目的から歓びを引き離すための倒錯)であるとバルトは言う。そして交換はいっさいを回収する。

 マラルメは形式の徹底故に国語を破壊する。それはテクストの歓びでもある。ではミステリのテクストはいかなる歓びをもたらすのだろうか。

 『鏡の中は日曜日』においてミステリとマラルメはその形式性において比較される。そして『鏡の中は日曜日』は「ミステリ」の次元において、そのような形式性の徹底と破綻が果たされているのではないか。すなわち「テクストの歓び」であると。

 まず、冒頭の語りについて。模糊とした文体に見えるが、これは夢の論理ではない。確かに事実の誤認や記憶の混濁はあるが、当人なりの秩序だった論理に基づく世界であり、「父さん」のいる世界である。

 過去(劇中作)と現在が交互に語られるパートでは過去の形式性が解体される過程と言える。このような形式主義/解体のプロセスを見出すこと自体が、テクスト自体ではなく、その内部の自己言及性に依拠する極めてミステリ的な読みであることは注意したい。

 マラルメは形式化によってptyxを生み出し、鮎井は名探偵水城を生み出す。それは国語の破壊であり、(鮎井にとっての)現実の破壊であった。

 鮎井によって改ざん=形式化された世界はそれ自体の形式化によって破綻するのだろうか。例えば名探偵水城の推理がその内部の論理で決定不可能ないわゆる「後期クイーン問題」を導入するとか。そうではない。解体するのはそれ自体ではなく、「別の論理の挿入」である。いわば「ツェラン」を導入することかもしれない。

 現在において、登場人物たちは鮎井の形式化(単に類型化と言えるけど)から逸脱した生活を見せる。これは自己破綻ではなく、有り体に言えば俗世に揉まれた、というものだ。俗世/マラルメの対比においても俗世(マラルメのファッション趣味)を持ち出す自己言及ぶりはあるが、これは二項対立ではない。形式化ではないやり方として「ツェラン」を考えること。登場人物がそれ以外の方法で生きること。この別の論理の導入とはモルグ街の殺人で見た通り、ミステリの本質なのではないか。

 ミステリにおいて放心の場へ導くのはどのようなテクストだろうか。推理の要請はそれに反した行為のように見せる。だが、推理し続ける故に逆説的に推理し得ない場を想定できる。それは推理の外部ではなく、推理によってもたらされる「ゲーデル的」なものだ。だがミステリのテクストはテクストそれ自体の自己言及から逃れる故に「別のやり方」での思考が可能になる。むしろそれこそが「推理」と言えるかもしれない。

 父権の元で父権と戯れること。形式の内部で形式化されざるものを招くこと。テクストの外側に何もないのなら、内部に「それ以外」を導入する。その「それ以外」との衝突が我々を放心させる。これはミステリがそのテクスト内部に戯れることで可能なのかもしれない。

Diary 『隠喩としての建築』柄谷行人

 柄谷行人ゲーデルのメタファーを用いて自己言及について考える。隠喩としての建築とは、混沌とした過剰な生成に対してもはや一切自然に負うことのない秩序や構造を確立することとして提示される。

 F・M・コンフォードはギリシャ思想の世界の見方を制作として見るか生成として見るかに分類する。制作は作品と対応する。超越論的な意味の外化・再現するもの。生成はテクストと対応する。超越論的な意味あるいは構造をたえず超出しあたかも自ら意味を算出するかのようにみえるもの。

 柄谷の、数学が基礎が持たないという主張は過剰にメタファーとして読みすぎとしても、近代の知が、合理主義への安住故に非合理主義が支配するような事態をもたらすことへの意識は正しく思う。西洋思想史において、建築的であることが逆のものを露呈してきたことを提示する。

 この逆説をマラルメにおいても見出す。マラルメが言語の日常的な使用価値をしりぞけ、まったくの関係のみで成り立つ語の構成を試みようとするこの企てが出会うのは偶然性であったこと。ピタゴラス的な美として要請された形式化への志向である、言語から指示対象・意味を排除した自律的な形式としての純粋詩は、形式的な項の関係のみで成り立つ。

 加えて小島信夫についてもすべてを関係項とみなす小説であるとする。最も明確に論理的たらんとする世界の自己破綻としてのオカシサ(不条理=absurdity)は、他方で、そのような理性・論理から排除されるような土俗的な、周縁的な世界、あるいは夢の世界と逆説的につながっている、すべての項が決定不可能なゲーデル的世界であると。

 マラルメが形式化故に「ゲーデル的問題」に直面したのは理解できる。では小島信夫はいかなる「公理」に基づいて「ゲーデル的世界」に至ったのか?それもまた「言語」自体である。われわれは言葉を使用しているが、言葉がわれわれを使用しているのではないかという疑いを生きてしまっている世界。

 自己言及的なシステムにおいては、最終的な超越または外部はありえない、という「ゲーデル的問題」からは自然言語も免れない。

 ここで考えたいのがなぜ法月綸太郎はテクスト自体の「ゲーデル的問題」ではなく、ゲーム空間としてのミステリを仮構して「ゲーデル的問題」を提起したのかだ。

 「ミステリ」に「ゲーデル的問題」を適用するというより、クイーンにおけるミステリと柄谷行人におけるゲーデルを比較する企てであったから、というのは前提ではあるが、それはテクスト自体の「ゲーデル的問題」に直面してしまえば、トリック、特に叙述トリックは成立しないからではないか。

 叙述トリックはテクストが「表面上異なる意味を持つ」故に発生しうる。だがそのようなテクストは形式主義を徹底すれば到達してしまうものである。叙述トリックとはその言語自体の形式主義をあえて保留することでテクストの「真の意味」、あるいは「多義性」に戯れることで起きるのではないだろうか。

 「ゲーデル的問題」を近代という問題すべてに拡張すれば、「ミステリが近代小説に擬態している」という指摘は正しい。近代小説が小島信夫のように、あるいはマラルメの詩のようにテクスト自体の「ゲーデル的問題」についての言及であるなら、ミステリは「作者」=「テクスト」のメタレベルを一つ下降させているのではないか。

 マラルメを題材にしたミステリである「鏡の中は日曜日」において、劇中作=メタレベルの下降した「作者」を登場させたのは必然的に感じる。そして「叙述トリック」を必要としたことも。「鏡の中は日曜日」においては、後期クイーン問題の解決、あるいは転倒として、メタレベルの無限階梯を停止させるために作品内にメタレベルを下降させる必要があったのではないだろうか。

 もしも「鏡の中は日曜日」がマラルメ化するなら、「ぼく」の語りを、より過激にし続けるしかない。例えば小島信夫のように(そういえば殊能将之は美濃牛において小島信夫も引用していた)。

 「本格」論議でとりだされる「フェア」であることとはそのまま「建築への意志」にほかならないと感じた。それは西洋思想を醸成し、近代を用意し、そしてそれ自体を食らうウロボロスである。

 そして、殊能将之が「鏡の中は日曜日」が「アンフェア」であることを認めたのは、この作品が「マラルメ的次元のゲーデル的問題」を「ミステリ的次元のゲーデル的問題」に落とし込んだために起こり得たのではないだろうか。

 本格ミステリとは現実/幻想/真実の境界はどこにあるのか批評する文学だ、と小田が述べたのは正しい。なぜならば「マラルメ的次元のゲーデル的問題」を推し進めた小島信夫の論理はまさに夢そのものだからだ。そこには境界もすべてが無化された世界しか存在せず、「ミステリ」は存在しない。「ミステリ」とはいくら脱構築しようとある種の二項対立を必ず必要とするのかもしれない。だからあえて言えば、ミステリは近代の産物であると同時に近代小説ではない。誰がアクロイドを殺そうが構わない。近代小説において、「アクロイド殺し」のテクストは夢の形式に落とし込まれる(あるいは上昇する)。

 「ミステリ」を殺すのに読者への挑戦は必要なく、ただ小説を書けばいいのかもしれない。

Diary 『マンガと映画 』三輪健太郎

 本書は映画とマンガという「近代」的な芸術を比較することでマンガの理論化を試みる。これは映画とマンガが近代の「視覚」に依拠しているからだ。つまり、それは映画とマンガを同じように読み解きうる「視覚」を近代人である自分たちが持っていることを意味する。

 モダニズムにおいて、各々の芸術の自己―批判=自己―限定において芸術の純粋さは保証される。マンガは文学でも絵画でもない不純な立ち位置にいる中でそれ固有のメディウムとして「コマ」を発見した。映画においてはそれは舞台美術と比較され、空間の動態化として論じられることになった。

 映画とマンガとの差異で一般的に言及されるのは、「フレームの可変性」と「読みの時間の能動性」である。

 しかし、読者の能動性、受け手の自主性は必ずしも「読みの時間」によってのみ生じるものではない。

 多くの場合で論じられる視線誘導の技術は作者が読者の読みをコントロールしうるという発想に基づいている。しかし、「作者の死」を念頭に置くにはその葬るべき対象をまだ把握できていないと言える。また、ここから逆説的にそれを「作者」が放棄しうるマンガなども想定でき、我々は指示されたり放棄されたりする「読み方」に従ったり抗ったりできる。

 映画では定められた速度でイメージが映写され、マンガは読みの時間が読者に委ねられていることはメディウムの物質的な条件から必然的に帰結する差異であるため、筆者はメディウムからスタイルへの問題の移行を提示する。すなわち、マンガにおける「映画的」なスタイルを論じることでその近しさを捉えていく。当然それはメディウムの特性を前提として、である。

 例えばマンガの「コマ」を映画の「ショット」に見立てる。

 大塚英志はコマの大きさとショットの尺が正確に呼応しているわけではないが、少なくともコマ一つひとつに相当されたショットの時間が異なることは表現されている。と指摘する。すなわち、フレームの可変性がむしろ映画的な表現として理解できる可能性である。逆に言えばフレームが変化しないマンガにおいて、マンガと映画との差異が明瞭になりうる。

 竹内オサムモンタージュになぞらえた第一のイメージにおいて作中人物がある方向に視線を向けたことが示され、第二のイメージでその視線の対象(と思しきもの)が示される図像の連鎖を「同一化技法」と名付ける。   

 筆者は「POV」と「視点」を分けて考察する。すなわち、「主観ショット」=「POV」とそれがもたらす「同一化」という効果が区別されなくてはならないということだ。 

 現実世界の情景をカメラによって機械的に再現する映画に対し、マンガは「形喩」表現によって世界を記号化する。光学装置の発明によって記号的なものと写実は対立項に置かれることになった。マンガのテクストを構成するのは「だだの線」であり、読者はそれを様々な約束事に従って何かの表象として読み取っているに過ぎない。だからこそ、あらゆることがおこりうるし、逆説的にあらゆることが無効になる世界になることが問題意識としてある。

 マンガにおける身体性は非リアリズムで描かれたキャラクターに、リアルに傷つき、死にゆく身体を与えた瞬間に変容したと論じられる。内面においても同様に「私」の容れ物としてのキャラクターに生身の身体を与えることで、「私」のあり方がよりリアルになることにより成立していく。

 一方で伊藤剛は単純な線画で描かれたキャラクターがだからこそ「実在感」を持つという図式を見出す。

 伊藤剛は「キャラ」を「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指しされることに、よって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの」とし、「キャラクター」を「『キャラ』の存在感を基盤として、「人格を」持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させるもの」と定義する。

 この「キャラクター」の成立こそが、「マンガのモダン」の成立と捉える。記号的な「キャラ」が本来的に持ちうる「リアリティ」を隠蔽し、それを「(人格を持った)身体」の表象たる「キャラクター」として読ませることで、近代マンガはリアリズムを獲得した、と言える。そして現代の(ポストモダン)のマンガは「モダン」の中で隠蔽・抑圧されてきた「キャラ」が「自律化」し、それを積極的に享受・消費する「読み」が進行してきたとする。

 大塚英志が指摘した戦時下マンガにおける特徴は「科学的なリアリズム」「記号的な身体性」「戦局を見る視点」「映像的手法」である。ここでは「記号的な身体」の表現を補うために残りの「リアリズム」を導入したとされる。

 伊藤剛は「マンガのモダン」において「キャラ」のリアリティの隠蔽と共に「フレームの不確定性」という特質が隠蔽されたことを指摘する。この抑圧によって得られたものが「映画的リアリズム」であると。ここでの「フレームの不確定性」とはマンガにおけるイメージが、ページ単位だけでなくコマ単位でも二重に分割されることに由来する性質である。つまり、マンガにおける「フレーム」は「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。

 「フレームの不確定性」に支えられた表現はページ、見開き単位でコマ構造を変える必要が出てくるが、「マンガのモダン」はそれを抑圧することで「映画的リアリズム」を獲得した。つまり、フレームを「コマ」の側に固着させ、あたかも仮想的なカメラがあるかのよつに描くことで映画的なリアリズムを獲得したと言える。

 「キャラ」が「紙の上のインクのしみ」でしかないものであることが、その実在感を支えていること。「マンガのモダン」においてキャラが枠線を突き破る表現は枠線もその中のキャラも等価な存在であることを顕にするため、隠蔽されざるを得なかった。

 したがって、問題となるのは「仮想的なカメラ」と「インクのしみ」の間にあるものだ。ふれーの中に描かれた光景が単なる「紙の上のインクのしみ」などではなく、「仮想的なカメラ」によって捉えられることが要請された。

 マンガは現実の「空間」を表象=再現する技法は、「透視図法」「奥行き」「遠近法」といった「映画的手法」と、「仮想的なカメラアイ」として回答とできる。

 マンガは現実空間の表象であろうとしながらも、同時に「インクのしみ」としての出自を露わにし続けてきたのであり、その葛藤として表現史を捉えうる。

 写真はあまりにも「豊富な細部」が含まれているために体系化された「記号」として使用することが困難な一方で、マンガは細部を単純化し、描画を記号化することで、極めて高い意味伝達性を獲得するが、ゆえに一度に一つのことしか表現できない。

 ロラン・バルトはコード化されないもの=プンクトゥムを写真の細部に見出す。バルトはフォトグラムに3つの意味の水準を用意する。「情報伝達のレヴェル」「象徴的なレヴェル」「第三の意味」である。象徴的なレヴェルとは意図的(作者の言おうとしたもの)であり、一種の一般的で共通した語彙のなかから採取されるものである。

 このコード化されない意味を線画において見いだせないと考える必要はない。

 少年マンガが動きをみせる方面に発展していった一方で少女マンガはムードをみせる方面に発展したと藤本由香里は指摘する。例えばそれは物語を追う上で直接関与しない三段ぶち抜きなどに代表される。このように少女マンガのコマの構成方法。「重層的」ないし「多層的」なものとして捉える方法は広く普及した。これは少年マンガが「映画的リアリズム」に向かったとすれば「過去の回想と現在の意識の錯綜、気づく瞬間の意識の分裂を表現」する「文学的リアリズム」に向かったと言える。

 複数のイメージを空間的に並置するというマンガのメディウムの特性は、「視線誘導」という技法を必然的に導くものではない。「視線誘導」とは映画とは異なるメディウムの特性を前提とした技法でありながら、どうじ、それによってマンガの中に極めて「映画的」と考えられる様式を構築させるものである。逆にそこから非映画的イデオロギーに基づき視線を遊ばせる漫景を発見できる。高山宏はマンガが情報伝達のために視線の拡散が組織的に抑圧されていたことを指摘する。

 マンガは静止している故に、逆説的に静止を表現するためには何らかの方策を取らなければいけない。無音を表現するのと同様に。マンガは静止させようとしなければ自然と動きを表現してしまう。

 映画的手法は二つに分けられる。一つは運動を徹底して分節表現すること。これを推し進めると映画のコマへと接近していくが、逆に自らが静止画の連続で構成されていることをあからさまに示すことともなりうる。

 二つはマンガのコマをあくまで映画のショットに見立てるもの。ここではそのコマの内部に運動がなければならない。

 漫景は映画的様式の前提としての時間把握の仕方をしていない。非映画的、特権的瞬間になぞらえるような非近代的表現。コマとは時間と空間についての近代的認識のあり方を反映した装置である。

 この論を読んだ上で自分は竹本泉を重要な作家であると考える。竹本泉こそキャラクター以前のキャラの実在性を早いうちから指摘し、フレームの不確定性を体現した画面構成をしているからだ。そして重要なのは「私」は「竹本泉」に「何か」を感じている。情報伝達と象徴の外部の「何か」。否定神学的な方法でしか到達できないのかもしれないし、それでも不可能なのかもしれないが、精緻に分析したく思っている。

Diary 『探偵が推理を殺す: 多元化する社会と本格ミステリ』小田 牧央/『法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術』法月綸太郎

 本格定義論争、特にX論争について思ったのは「どうでもいい」だった。前提として謎の難易度についてはかなり興味がない。元々推理小説を読んで推理などしたことないし(必然的に推理してしまって真相に至ったということはあっても)、故に少なくとも自分にとって謎の堅牢さは読書を駆動しない。

 二階堂黎人の称揚する「論理的な推理によって誰もが客観的に真実へ到達しうる作品」をエレガンスに感じる自分もいるが、そこへの愛着も薄い。強いて言えば巽昌章の「探偵役が一個人として真相を悟るに至った洞察や想像力まで含めた広範な知的営み全般」を本格とするスタンスに自分は近い。しかし、それは自分にとって「ミステリ」の定義であって「本格」の定義ではない気がする。例えばレムの『枯草熱』や『捜査』を優れた「ミステリ」であると自分は評価する。上記の巽的なスタンスに極めて合致するからだ。だがこれらは「ミステリ」であって「本格」ではない、という肌感覚がある。だから本当は二階堂的な「本格」観の方が自分は近いのかもしれないが、本当に何が「本格」であろうとどうでもいい。言い換えれば、「本格」であることを特に評価軸に置いていない。自分は推理を愛していない。それでいながらある程度「ミステリ」を読んでいたのはなぜだろうか?いや、何を読んでいたのか?

 自分の問題意識は、「ミステリ」も「本格」も思想を持ちうるはずなのに、「どうでもいい」と投げ出しても何も悩みがないことだ。問題意識を内面化できない一方で、「ミステリ」や「本格」の問題意識と向き合おうとする作品や批評を面白がる(例えばこの本のように)。そこの自己矛盾というか否認のシステムをいまいち把握できていないことが現在「ミステリ」を読む上でネックになっている。

 本書でなるほど、と思ったのは「本格ミステリ」を一元的な価値観(本質)があるのではなく、ときに相矛盾するような概念が混在している、と提起したことだ。小説なんだから当たり前ではあるし、「ミステリ」を「小説」から特権化できないことに違和を覚えていたから、二項対立ではない決定論的態度と不可知論的態度が混在したものとしたのは素直に飲み込むことができた。

 だからこそ、筆者が「本格ミステリ」の自明の価値観であろうと提起し、反転させようとした問題が、言われるまでもないことだと感じた。特殊設定ミステリにしても本格とも無縁ではない、と言及する時点で、本格/特殊設定(変格?)のグラデーションを前提としていることが伺えた。そこを理解できない。故に、本格ミステリとは現実/幻想/真実の境界はどこにあるのか批評する文学だ、とまとめようとした筆者の言葉は祈りや信仰告白のように感じて、尊く好ましく感じる。

 「本格ミステリ」を面白がるのは自分が異教徒だからなのかもしれない。キリスト教は神の存在を前提にして論理を組み立て、神の存在を証明して見せたりするけど、その営みを非キリスト教徒である自分が面白がるのと同じかもしれない。誤った前提(といえば語弊があるけど自分が内面化できない価値観という意味で)から正確な論理を積み重ねた体系は正確に駆動し、機能する。その意味で言えば「本格ミステリ」は間違っているし理解できない、故に自分は面白いのだと思う。

 神学論争の最たる例が後期クイーン問題だろう。法月綸太郎は20代の半ばまでは「読者の間でミステリーのスタンダードという幻想が共有されていた」と述懐するが、それはミステリー史というより法月本人の問題意識の変移ではないかと感じた。

 「初期クイーン論」で意外だったのは、野家が指摘した「『ゲーデル問題』が過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし」ていることに極めて意識的だったことだ。法月はその上記の「あやうさ」も含めてクイーンに似ていると先に述べる。後に後期クイーン問題が「ゲーデル問題」の「あやうい」運用の代名詞として扱われることを思うと皮肉かもしれない。法月がしようとしたことは柄谷がゲーデルを使って考えたこととクイーンがミステリを使って考えたことを比較することだ。

 「形式化」の定義について孫引きする。

 「形式主義は、諸学問・芸術において異なった意味をもっており、またときには異なる名称でよばれている。このことはわれわれの認識を混乱させたり意思疎通を妨げているが、それをむりに統一するのは不可能であり且つ不必要である。しかし、誰にも明瞭なことは、西洋において十九世紀後半から、とりわけ二十世紀前半において顕在化しはじめた文学や諸芸術の変化―たとえば抽象絵画や十二音階の音楽―が、パラレルで相互に連関しあっていることであり、のみならず、物理学・数学・論理学などの変化がそれらと基本的に照応しているということである。このような変化のパラレリズムが示すものを『形式化』とよぶとすれば、さしあたって、その特性は次のようなものであるといってよい。第一に、それは、いわゆる自然・現実・経験・指示対象から乖離することによって、人工的・自律的な世界を構築しようとすることであり、第二に、指示対象・意味(内容)・文脈をカッコにいれて、それ自体はイミのない項(形式)の関係(あるいは差異)と一定の規則をみようとすることである。各領域でどんな手続き(現象学的還元はその一つである)や、のちにのべるようなレトリカルな"逆転"がなされているとしても、それらは類似するものであって、そのどれかにプライオリティり与える根拠はない。それぞれ無関係に、むしろ互いに盲目的であるままに生じてきたこの変化を『形式化』とよぶことは、それらを"全体"として展望したり、"共通の本質"を取り出すことを意味しない。それはただ、各領域のなかで特権化されたものを非特権化するためにすぎない。」

 ヴァン・ダインは実作において成功したとは言えないが、「本格推理小説」を自己完結的なゲーム空間、ひとつの公理系として提供することを、試みた。しかし、ヴァン・ダインは「犯人―探偵」/「作者―読者」という二つのレベルの区別を前提としており、それは「形式化」の意味することから破られてしかるべきものだった。

 「国名シリーズ」においては一人称の語り手を持たないが、〈読者への挑戦〉においてのみ私=作者の一人称で語りかける。これは「作者」の恣意性=メタレベルの下降を禁止することで閉じた形式体系が成立し、『アクロイド殺し』的な自己言及的なパラドクスを封じていると換言できる。

 笠井潔は探偵小説は近代小説に擬態した形態であるとし、作者によるストーリーの先行性を読者に提供されるプロットの優位性という方向に逆転させたものと論じる。〈読者への挑戦〉はその逆転の極点と言える。

 超数学がメンバーとしての形式体系に入り込む自己言及性のメタファーをクイーンにおいては「ギリシャ棺の謎」において見出す。すなわち「手がかり―推理」として作中に示される論理が暗黙に前提しているフィクション性を、「偽の手がかり―偽の解決」というオブジェクトレベルにずれ込ませることを意味する。

 確かに「形式化」の極限において体系が自己言及的なパラドクスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を「ゲーデル問題」とし、ミステリに引用してみせる手付きはアクロバティックで面白い。しかしやはり重要なのはミステリがゲーデル問題を利用しうる体系を持ちうるか、ということではなく、「し得ないかもしれない」という「あやうさ」を孕んだまま進行することではないか。九尾の猫じゃないけど、愛=直観主義を受け入れた上でゲーデルを「誤用」してみせること。小説という死体の山からミステリをミステリたらしめるのはやはり愛にほかならないと感じた。

 『うみねこのなく頃に』や『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい』のような地の文=オブジェクトが消失していくミステリが結果的に愛の話になるのも当然かもしれない。ミステリを「ミステリ」にするのは愛でしかないからじゃないか。自分はミステリというゲーム空間を愛し、信仰することができない、故に「ミステリ」を愛しているのかもしれない。これこそがまさに「ミステリ」的な自己言及的パラドクスだ。その自己言及的なパラドクスを解決する手段として、自分は「どうでもいい」と否認してみせているのかもしれない。

Diary 『不完全性定理とはなにか』竹内薫

 ミステリについて考えようと思ったので不完全性定理の概要は再確認したいと思って手に取ったけどなかなかわかりやすかったと思う。小説や伝記風の記述もあって飲み込みやすい。

 第一に紹介されたカントールにおいて、順序数と濃度の概念を導入する。順序数は自然数を無限に並べたときの順番を意味する。濃度は集合同士の大きさを比較する概念である。カントール自然数の集合の大きさをℵ0とする。次に自然数の集合の全ての部分集合の集合をℵ1とする。

 順序数と濃度は有限集合の場合は一致するが無限集合の場合は異なる概念である。例えば{1, 2, 3, ……, ω }の濃度はℵ0で順序数はωである。しかしこれを並べ直した{2, 3, ......, ω, 1}とすると濃度はℵ0だが順序数はω+1である。無限であるωの次の順序に1が並んだためである。

 次に考えるのが「実数も無限にたくさんある。でもその濃度は可算無限より大きいか?」である。段階を踏まえて考える。

⓪ 0以上1未満の実数を考える。

① 仮に0以上1未満の実数が自然数と一対一対応がつくとする。すると、0以上1未満の実数すべてを網羅していると思われる表を作成できる。

② この表の対角線上に並んだ実数はこの表のどこかに載っていると考えられる。

③ ②の実数の小数の位をすべてずらしてみる。

④ ③で作成した実数について考える。この実数は小数一桁目が異なるため表の最初の実数ではない。以下同様にn桁目まで考えるが、小数n桁目が食い違うため、この実数はこの表に載っていないと言える。

⑤よって表には可算無限の実数が載っていたが、「それ以外にも実数は存在する」。さらに、「実数の方が自然数よりたくさんある」と言える。

 可算無限ℵ0の次に大きな無限をℵ1とし、以下同様にℵ2と続くが、実数無限を単にℵとする。ここでℵ=ℵ1とする主張を「連続体仮説」と呼ぶ。言い換えれば可算無限と実数無限の間の濃度は存在しないという主張である。のちにゲーデルが「連続体仮説の否定は証明できない」ことを証明し、コーエンが「連続体仮説は証明できない」ことを証明した。少なくとも標準的な公理化された集合論において。

 決まった推論規則を順次適用していく作業が証明であるが、証明の出発点を公理と呼ぶ。ペアノは以下の五つを算術の公理とした。

① 数1は自然数

② aが自然数ならば(aの次の)a+1も自然数

③ aとbが自然数で等しい(a=b)ならばaとbの次の数同士も等しい(a+1=b+1)

④ aが自然数ならばaの次の数字は1ではない(a+1≠1)

⑤ 集合Sが1を含んでいて「aがSに属するならば(aの次の)a+1もSに属する」という性質をもつならば、Sはすべての自然数を含む

 ゲーデルは「ペアノの公理系を含む理論」が自らは矛盾を含まないことを証明できないことを示した。一方で「プレスバーガー算術」はゲーデル不完全性定理の適用を受けない。ペアノ算術においては「正しいが証明できないこと」があり、真であるが証明できないこともある。

 ゲーデルは基本的な記号を符号化した。ゲーデル数で重要なのは形式記号と数字の間の変換が1対1で行われることである。記号が並んで記号列になった場合、素数のべきの掛け算であらわす。

① 1変数の命題F(y)を網羅した一覧表を作る。並べ方はその命題のゲーデル数の小さい順とする。(F1番(y), F2番(y), ......)

② 「Fk(l)の形式証明のゲーデル数xが存在する」という命題を考える。これを

∃xP(x, k, l)

と略記する。

③ 命題∃xP(x, k, l)のkとlを変数yに置き換え、否定にした命題

~∃xP(x, y, y)

を考える。これは1変数を持つ命題なので①の一覧表のどこかにある。それをn番目とすると

Fn(y)=~∃xP(x, y, y)

④ Fn(y)=~∃xP(x, y, y)の変数yにnを代入する。

Fn(n)=~∃xP(x, n, n)

⑤ ④の右辺の内容は「Fn(n)の形式証明のゲーデル数xが存在しない」となる。対応するゲーデル数xが存在しないためFn(n)が証明できないことになる。一方で左辺を見ればそれはFn(n)なので「この命題は証明できません」という命題Fn(n)ができる。

 この証明は一種の対角線論法である。

 また真偽という概念は一種の「関数」である。命題論理では真偽表のすべての欄が「T」になっていることを意味する。真理関数の値が恒に真である。述語論理も関数だといえる。ゲーデルの証明は純粋に構文論の世界である。だが、「ペアノ算術を含むシステム」を考え、ゲーデル数の方法により、システム内の式をすべて「数」に翻訳してしまう。算術は数同士の関係に他ならないから算数の式として「真」であるにも関わらず証明できない、という状況となる。

 「意味」とは記号と記号外部との関係だが、ゲーデル不完全性定理ゲーデル数によってシステム内部に含まれる算術との関係性が生じるので意味が「自然と湧き出てくる」。

 チューリングの停止問題は不完全性定理のコンピュータ版とみなすことができる。

 というわけでざっと不完全性定理についての概観はまとめたというかさわりの部分は把握したのではないかと思う。

 特に目からウロコだったのは不完全性定理定理とはシステム内部での関係であるというところだ。ペアノの公理のそれ自体による非証明性はわかるけどそれを導く不完全性定理ペアノの公理に基づいているのでは?と思ったから、不完全性定理とは意味が「自然と湧き出てくる」というのはなんとなく納得できたし自分の問題意識と直結していると思った。まさにself reference asylumと言えるわけだ。

 とはいえこういう入門書程度の内容しか理解できていないし、数学的知識には乏しいのであまり深入りはせず、これをどうミステリに援用、あるいは比喩できるのかは理系の人にお任せする。とはいえふわっとメタファーとしての不完全性定理を利用するのもしょうもないのでもう少し勉強するか、黙っているかはっきりしたほうがいいかもしれない(と言えば言及できることは何もなくなってしまうんだけど)。

 ただこれを読んで数学における記号論や意味論もなかなか面白そうなのでこのへんもさらってみたらよさそうと思った。

Diary 『八月の光』フォークナー/『+チック姉さん』(22)栗井茶

 フォークナーをこの一週間くらいちまちまと読んでいたのは、『八月の光』がつまらなくて読み進められなかったからではない。むしろ文体にはとても惹かれていて「小説」を読む面白さとはこういうことだと思ったくらいだった。では、なぜ読む速度が遅かったのかと上記の「小説」観はどこか繋がっているように思えた。

 少なくとも『八月の光』に感じていた面白さはストーリーテリングではない。キャラクターの境遇を面白がるそういう読みもしていたけど、自分が面白いと感じたのはそのようなキャラクターが立ち上ってくる以前からだった。だから惹かれたのは文体だと思うわけだけど、フォークナーの文体の精緻な分析は難しい。

 辞書的に意識の流れの系譜に連なる(丁寧に語りが噴出してくる箇所は強調されていた、わかりやすくてありがたい)のは理解できる。自分には模糊とした部分と明晰な部分の乖離が激しい文体のように思えた。そこが魅力なのだろうか?

 例えば曖昧模糊さと明晰さの乖離が激しい作家ではカフカなんかが思い浮かぶ。カフカの文体は明晰に出来事をビジュアル的に立ち上らせるが、その意味を宙ぶらりんにする。フォークナーはカフカとは異なる。確かに登場人物の行動、それに心理さえ明晰に描写してみせる。しかし、意味は宙ぶらりんになるのではなく、過剰な暗喩と無意味の間に漂い続けているのではないかと感じた。自分が惹かれたのはその中間であること、どちらでもないことに対する文体の意識についてではないだろうか。

 ストーリーにあまり興味はないと言ったが、解説において、ジョーのアイデンティティーの不安は「近代化」によって虚無化されてしまい、別の苦悩を産む、と読まれていたが、これはまさにフォークナーの文体の本質ではないかと思えた。

 〈ふるさと〉=アイデンティティーを蝕む「近代化」の力によってフォークナーの明晰な文章も観察眼もその明晰さ、観察眼故に虚無へ向かおうとしていたのではないか。少なくとも何かの揺れ動きを覚えたのが魅力だったのだと思う。先ほど曖昧模糊な文体でもある、と述べたがそれは正確ではなかった。明晰に虚無へ向かう文章を書こうとすれば逆説的にほのめかしやメタファーを意識せざるを得ない。逃れられない。その動的な虚無へのうねりを記述しようとしたからこそ意識の流れ的な技法を要請したのかもしれない。

 メタファーで言えばあとがきの指摘にあるようにリーナの赤ん坊とジョーとキリストの重ね合わせがある。その上でリーナは「あたしごっちゃになりたくないんです」と主張する。訳者はこれを小説=幻想世界を作り上げようとする作者へのメタツッコミだと言うが、自分にはメタではなくベタなのではないかと思えた。フォークナーの文体の問題意識は「あたしごっちゃになりたくないんです」というのが本質なのではないか、つまり、幻想、メタファー、アイデンティティーが「ごっちゃに」なりうる可能性や背景を認識し、把握した上でそれを拒みたい、拒まざるを得ないのではないか。『八月の光』が書かれたときはすでに20年代ではなかったように、「近代化」はされてしまった地点からしか振り替えれない。明晰に分析するほど、明晰なアイデンティティークライシスには戻れない。すべての意味が接続される世界は〈ふるさと〉でありそれはもはや失われている。

 「小説」が近代の産物であり、『八月の光』が「小説」だと思ったのはきっとその意味と無意味の葛藤を感じ取ったからではないかと思うわけだ。『ドン・キホーテ』から「小説」を始めれば、上記の訳者の指摘は正しい故に少し足りない。なぜならばその指摘する「メタ」性から小説は始まるからではないかと思うからだ。虚無によって駆動し、どこまで行っても「メタ」言説がつきまとう世界を明晰に切り取る意志を持つことがすなわち「文体」なのではないだろうか。自分にはフォークナーはその意志が明晰に揺らぎ続けているように見えてきっと好ましく思った。放浪する意志が書くものはだからこそ「近代人」の姿を写し取り、今に呼応しているのではないかと思えた。

 架空の都市の群像劇という点でフォークナーと『+チック姉さん』は響き合う、というのは苦しいっすか?フォークナーは書き方に面白みを感じたが『+チック姉さん』に感じる面白さは群像劇に求めるものだ。誰かと誰かの意志と人生が交錯すること。『+チック姉さん』はよく強さ議論的なノリで語られることはあるけれどそれは正しい。強さ議論も群像劇も誰かと誰かの掛け合わせによってどのような反応が起きるか、という面白みだからだ。

 怪異も変質者もTHE市の外部ではなく内側の存在だ。怪異にも変質者にも作品内の論理で立ち向かう、あるいは敗北する方法が示されている。怪異/変質者/一般人にも明確な区別はない。あくまで相性(これもバトルマンガ的だ)とグラデーションがあるだけだ。こういう区別が無化される構造自体、近代人の苦悩なんですかね?

 少なくとも『+チック姉さん』の笑いは怪異や変質者が我々の論理の外側=不条理だからではない。少なくとも(一見して)そのように不条理な存在が論理に回収されるところにあると思う。怪異も変質者もそのキャラクター個人のロジックとして他のキャラクターたちと並列化される。並列化された上でのパワーバランスのシーソーゲームが面白みになっている。

 そのバトルは暴力だったり暴言だったり色々だが、そのキャラクターの論理のぶつけ合いが楽しい。だからこそこのマンガは大量のキャラクターを必要としたし、その掛け合わせも増え続けているんだと思う。ノッポと辰っちゃんと、マンホール学歴男と宇宙人が絡むとか思わなかったし。