くり~み~あじ~る

Notes Toward a Supreme Fiction

Diary 『戦場のフーガ 鋼鉄のメロディ』(1〜4)足立たかふみ・サイバーコネクトツー/『宇宙プロジェクト開発史アーカイブ』鈴木喜生/『月の真実と宇宙人の存在』39直人/『月の縦孔・地下空洞とは何か 月探査機「かぐや」による縦孔発見から「UZUME」計画まで』春山純一

 今日集中的に宇宙の本を読んだのは陰謀論にハマったからではなく、前から書こうと思っていた東方の二次創作、特に紺珠伝をモチーフに何か書こうと思ったからだ。幻想を侵略する不可視のキュリオシティとアポロ捏造説は魅力的なイメージに感じた。というわけで月面探査やそれにまつわる陰謀について調べようと思ったわけだけど『宇宙プロジェクト開発史アーカイブ』は宇宙開発史の概略をカタログ的に知るには適当だったけど、深掘りするには少し物足りなかった。

 『月の縦孔・地下空洞とは何か 月探査機「かぐや」による縦孔発見から「UZUME」計画まで』ではそのタイトルの如く月の縦孔の探査について詳しく書かれていて興味深かった。それに火星の縦孔についても記述があって、ドーム状に隠蔽された地下空洞のイメージは東方的な(裏)月面とも重ねることができそうだなあと思いながら読んでいた。東方の月の都の結界ってどういう設定だっけ?と忘れていたけどあいにく儚月抄が手元にないのでネットで調べる。獣王園は清蘭が登場するからまた月絡みの設定が開示されるかもしれない。故郷の星が映る海はうどんげ的にダブルミーニングでニクいと思ったけど、獣王園で忘れがたき、よすがの緑が清蘭のテーマとして再設定されてこちらもなかなかニクいなと思った。

 残念だったのは『月の真実と宇宙人の存在』。陰謀論ならパラノイア的に星座を描くような過剰接続の大伽藍を期待していたわけだけど、これはちょっとした宇宙人や宇宙船がいるかも的な期待をするだけでしょうもない。いや、陰謀論の本に体系を求めるのが間違っているのは承知だけど当人なりの正気を楽しむのがオカルトのよさだと思うのでウィキペディアやアンビリバボー以下の細々したゴシップもどきなら読まなくてもいいや。

 陰謀論と二次創作はどこか似ていると感じたけど、それをさせる元ネタ(?)も情報の粗密のアンバランスさが似ている気がする。アポロ計画は公開されている情報は当然多岐にわたるし緻密なわけだけど、当時隠していたりした部分は徹底的に見えない。東方や例えばエヴァなんかにしても、キャラたちが何をしているのかは提示されてもそこに至る世界のルールはごっそりと抜け落ちている、と思えばあるディテールは過剰に書き込まれている。

 笑い話としてZUN極右説なんてあるけど、たぶん違う気がする。ZUNはストーリーテーリングが下手だからだ。フェムトファイバーを思い出すまでもなく、東方のマンガは面白くない。設定の提示はされてもそれを有機的に結びつけてドラマにするのが困難なんだと思う。極右ならもっと大きな物語を信頼しきってこのような情報の粗密の不格好はさせないんじゃないかと期待する。庵野秀明にしてもシン・ゴジラなんかで右翼チックに映るのも単に物語への興味のなさの表れなんじゃないか。だから欠けた物語を埋めようとするメカニズムが陰謀論や二次創作を発生させるんじゃないだろうか。過剰に極端な情報の粗密でいうとGのレコンギスタを思い出すけど、これはきっと逆のことをやっている。つまり、世界のルールは開示されるが、キャラが何をしているかの提示を意図的に端折っている。これはある意味陰謀論に染まっていたアイーダたちが、社会の仕組みを知る話だから構造として正しいと思う。だからGのレコンギスタにはパラノイアに陥る不健全さがなくてみんな素直にあっけらかんとしている。昔はGのレコンギスタの情報爆発にピンチョンなんかを想起したけどまるで別物だと理解した(ヴァインランドあたりのケンコーな時期なら比較できるかも)。ディックやピンチョン的なパラノイア富野由悠季には似合わない。大きな物語を描いたファーストガンダムイデオンなんかにしても情報の接続はパラノイアじゃなくヒステリーだ。情報は錯綜するだけで、多重に接続されることはない。

 その点でケモノジャンルというのは物語はない。なぜならケモノはポルノだからだ。物語を運動のことだとするならポルノは常に瞬間を切り取られている。ケモノでありながら物語化すると何かのメタファー(たいていは同性愛者)にしかならない。

 『戦場のフーガ』はその意味で物語はない。確かにストーリーテーリングは見せているかもしれない。しかしそれはケモノを見せるための装飾に過ぎない。インターミッションでキャラたちの排泄について考えていたのも、細部やリアリティへのこだわりというより、勃起しうる存在としてのケモノの存在からして当然の連想なんだと思う。ゲームの童話的色彩、音楽から少年マンガ的な画面構成に変わったことでより確信した。これは泣いたり怒ったりするケモノを見せることが本質であって、それ以上は何もない。だが、そのケモノである=フェティッシュのみの空虚な存在は今ここに生きるそのままの人間と何も変わることがないのではないかとも感じる。

 だが、そのようなケモノ解釈こそケモノの物語化にほかならないのも自覚している。それがさらなる物語化を産み……という無限の構造を抜け出す手段はあるのだろうか。

 その欠けた大きな物語を埋め合わせるために『戦場のフーガ』は戦争という舞台を必要としたのではないだろうか。ケモノの逃げ場のなさは私達に似ているし、逃げ場がないことへの逃げ場のなさも私達に似ている。

月の縦孔・地下空洞とは何か

Diary 『読書について』ショーペンハウアー

 そもそも読書日記を付けようと思ったきっかけを考えるにあたって、『読書について』はちょうどよかった。というのも自分が何も考えていないのを実感していたから。

 読書とは他人の頭で考えることだみたいなアフォリズムは聞き覚えがあっても、実際に自分自身で思考するのは難しい。それを積極的に意識するようになったのは小説を書き出したのもあるし、竹本泉の批評に失敗したことが大きかったと思う。

 『ながるるるるるこ』について批評を書こうと思ったわけだけど何も書けなかった。少なくとも竹本泉の作風や描き方には詳しいし考え続けていたと自負していたので言語化しようとしたときに絵がかわいいとかちょっとペーソスを感じるとかその程度の表層的な言葉しか出てこなかったのはショックを感じた。あくまで表層に留まり続けるのが竹本泉なのだ、とも言えなくもないけどそうではない何かを感じているから竹本泉を愛しているし何かを書こうと思ったわけで、その何かを何も考えていなかったことさえ意識できていなかったことは書かないとわからなかった。

 ショーペンハウアーは物書きを三種類に分類する。一番目は考えずに書くタイプ。二番目は書きながら考えるタイプ。三番目は、書く前からすでに考えていたタイプ。

 自分が三番目に位置すると意識していたのがうぬぼれだと気がつけたのでせめて二番目くらいにはなろうと思ってメモをつけようと思う。

 またショーペンハウアーの称揚するテーマそのものについて考える、という考え方もできていなかったと思う。小説でも自分なりに「小説」や「ポルノ」や「プリチャン」とかその小説ごとの課題について考えていたつもりだったけど、体系化できていない。故に散文であるというのは逃げだ。少なくとも明晰に論理的に書きたいと思っているがそうできない。曖昧模糊としたものを書きたくてもその曖昧模糊さを描写できない。ただ分裂した言葉の羅列を並べるしかなかった。

 読書してから考えないと血肉にならない、というのはショーペンハウアーのおっしゃる通りで(とすぐ鵜呑みにしちゃうのがだめなのかもだけど)少なくとも書く前に考えることができてないことを知れたから書いて考える訓練をしたいと思ったわけだ。

 乱読はしょうもないというのがショーペンハウアーの主張だけど自分はどちらかと言えば乱読タイプでミーハーだからけっきょく過食して嘔吐していたようなもんだったんだと思う。それで読書ペースが落ちて消化不良に気がついた。思想を体系化できてないのは意識していたけど、とりとめのなさの向こうは空っぽだった。一時期うつ病で活字が読めなくなったけど本当に自分の中には何も語るべき言葉も読むべき言葉もなかった。じゃあ何で読んでいたのか、となるとコレクション欲やファッションがなかったとは言えない。

 読書メーターはよくできていて簡単にコレクション欲を満たしてくれる。読まなくても読みたい本を登録して架空の本棚を作り上げてそれだけで満足させてくれる。そういう読書をしてきたから全部否定したいとは思わないし、ファッション的な背伸びから成長するということもあると思う。小学生の頃だってディックとかバラードとかわからないまま「かっこいい」から読んでいたけどそれは無駄じゃなかった、と肯定したいのもある。ただそれだけじゃだめだと思ったからこうして(ショーペンハウアーに言わせれば)駄文を書いてみているわけです。

 再読しろ、古典を読め、というのもショーペンハウアーのおっしゃる通りです。体系化されない、しようとしない読書が時間の浪費でしかないのはわかっている。でも暇つぶしの読書だってしたい。読書の快楽には自分の頭で考えない快楽というのが確実にあると思う。わかっていることをわかるように書かれると半身浴みたいに楽しい。自己成長とか高貴な精神とか言い出すのも胡散臭いし恥ずかしい感じがする。その上でそれに安寧していてはだめだと思った。自分はマゾヒストではないけど変革というのは絶対的なストレスでだからこそより高い快楽を得られると信じている。安寧の快楽はうつ病の快楽と同じだ。ニルヴァーナへの意思は自殺に追い込むかもしれないしそれが怖い。

 匿名批評批判もなかなか耳が痛かった。ツイッターだけじゃなくふたばちゃんねるとかも入り浸って無為な時間を過ごしていたから。ふたばちゃんねるの快楽は典型的な安寧の快楽だ。いつもの画像、いつものやりとり。全く考えなくていい気持ちよさ。本気でふたばちゃんねるを続けると自殺するしかないと感じてきた。ふたばに限らず匿名ネット文化は気持ちよく「オレたち」を演出してくれて恥ずかしげなく豚のような大衆になれる。大衆の中に紛れ込むのは安心する。ましてや「オレたちキャラ濃過ぎ」なんて言い合えば絶頂する。ここで絶頂する、みたいな洒落臭いジャーゴンを使うところがけっきょく自分の逃げ場のなさを物語っているのかもしれない。

 でも成長したいという意思がありたいのは嘘ではない。賢くありたいし高貴でありたいと思う。ショーペンハウアーはそれを自分で考える人だと断言し、それが心地よくもあるし不安でもある。批判的である必要はないけどショーペンハウアー的な読書観と自分の今の問題意識を混同しすぎている気がする。本来それこそ自分で考えなくてはいけない意義なんかをショーペンハウアーが考えてくれていた。そこの分別をつけるためにもそれこそこの本をそのうち再読しないといけないのかもしれない。

 

ながるるるるるこメモ 漂泊するアイデンティティ

1.宇宙人たち

 るるるこは最初、サールスの召使として登場する。サールスの召使をしていたるるるこはサールス文化に染まっている部分が多い。例えば「一人前の召使になってネズミを食べる」ことを目標にする。るるるこが王になった際には「しゃー♡香り高きわがサールスの文化をあまねく宇宙のすみずみにまで行き渡らせるのだ」と言う。サールスの暦で年を把握していることなどである。

 司書のもとで働くときも司書≒ネズミを味わっているのもその名残と考えられる(「司書先生ネズミの仲間ですか」)。

このようにサールス文化に染まりながらもるるるこは自身がサールスではないことをしっかりと把握している。これは「サールスすてき」と言ったことから逆説的に自身はサールスではないと認識していると考えることができる。

またサールスは猫を人類世界の産物として扱っている部分がある。「とかげの神は人類世界を征服したときの褒美にと猫を用意してくださったのだ」るるるこにミミミを外さないよう言ったことからミミミを付け続けることもサールス文化に染まった一端として読めるかもしれない。

 司書は集まっていないと知能が下がる群体生物である。これが代表的だがサールスも謎の幽霊種族も集団としての思想を発揮させている。サールス間で仲間割れを起こすのは例外的かもしれないが、るるるこへの待遇は同じものである。

 幽霊種族は名無しである。外見はるるるこに似ているがるるるこはそれに気が付かない。取った行動と言えば王を迎えて臣下であろうとすることだ。これもるるること同じである。

 地球帝国宇宙軍の犬。るるるこの地球(神聖帝国)は国連未加盟であり、社会的にも疎外されていることが読み取れる。その結果地球帝国と混同されることとなる。コピー地球は竹本泉作品でお決まりの設定だが、集団として立ち昇る宇宙人たちを見ると、集団としての=非個としての地球のイメージが呼応する。

 その後海賊になるがこれはアウトロー=無身分状態になったと言ってもいい。しかしそこで砲撃の能力によって仕事=役割をるるるこは担保する。

 偽地球の光る先生が物語を語らせる。光る先生も「我々」であって集団として現れる。

 以上のことから集団としての宇宙人に対して個としてのるるるこの立ち位置が揺らぐ構造が維持されていることがわかる。

2.るるるこ、ミミミ、ふーナ

 初めに気象局につながらないことをミミミが告げる。ここでも切断されてしまったるるるこのイメージが立ち上がる。ミミミはある程度るるるこの行動をコントロールしている。「どうしてこわれた船が逃げていたのか聞いてみて」「今月の目標を決めよう」またミミミはるるるこの言動を記録している。その一方でるるるこは忘れっぽい。これは司書からも観察して記録することを要求されることからもわかる。

 るるるこは謎の幽霊種族に王にされるがミミミを外すと偽耳として王失格になる。その後ふーナが王様でペット、るるるこが従者で飼い主になる。猫はサールスにとって人類世界の象徴であり、ミミミを付けたるるるこを猫のようで好ましいとしたが、幽霊種族もこの価値観に基づいて行動しているように見える。

 るるるこは孤独の中で、わたしがわたしの召使になってわたしがわたしに命令することを思いつく。そのるるるこによるるるるこへの命令もミミミによって修正されている。

 ペットである猫と言葉の存在であるミミミの間でるるるこは揺れ動いているように見える。

3.時間と語り

 本作は時系列がバラバラである。直線的な時間からるるるこのアイデンティティは立ち昇らない。るるるこの語りも時系列の混乱がよく見られる。過去の省略や嘘の未来が語りの中に入り混じることになる。

 サールス文学は途中は波瀾万丈だがオチが同じ。るるるこの語りは司書から「波瀾万丈」と称されている。

 るるるこは光る先生に物語を提供させられる。これは仕事ではない。最後はサールスが宇宙征服するオチを作るが意外な結末と評価される。この評価の差は何だろうか。また、地球帰還後のるるるこの未来は意外ではない、と地の分で評される。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト 再生産するバナナイスマニエリスムからワイ(ル)ドスクリーンバロックへ

 人間とは地と天との間に存在する不滅なるもの。地上の諸存在の間にあってただ一つ、勢い熾んな炎のごとくに自らを超えて飛躍し、その活動をもって大地を支配し、諸元素に挑戦し、魔術を認識し、スピリトと交わり、万物を変形し、神の像を彫り上げる。固定された事物の中にあって、人間は不定なること、あたかも万物を灼き尽し、滅ぼし、またよみがえらせる火の如きものである。人間に一定の顔はない。なぜなら、人間はいかなる顔も持ちうるから。一定の形もない。すべての形をこわし、すべての形に生まれかわりうるからである。

『アスクレピウス』

 

 

先日、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が公開された。この劇場版において、舞台少女たちはオーディションにあらざるレヴューであるワイ(ル)ドスクリーンバロックによって、舞台少女の死を乗り越え、聖翔音楽学園から卒業していった。しかし、このワイ(ル)ドスクリーンバロックとは何だったのだろうか。 

 

ワイ(ル)ドスクリーンバロックと聞いて真っ先に連想するのは、恐らくワイドスクリーンバロックだろう。ワイドスクリーンバロックブライアン・オールディスが提唱したSFのサブジャンルであり、「時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄」な特徴を持つ。B級スペースオペラの意匠を借りたスペキュレイティブフィクションとも言い換えられるだろうか。チャールズ・L・ハーネスやアルフレッド・ベスタ―、バリントン・J・ベイリーなどが代表的である。アニメならば『天元突破グレンラガン』などを例として挙げられるかもしれない。

しかし、『レヴュースタァライト』はワイドスクリーンバロックに分類できるだろうか。思弁性については認めることができるかもしれない。だが、リアリズムに則っていないとはいえ、「キラめき」やレヴューシーン、ループなどをSFとして解釈するのは苦しい。仮にこれらの超常現象をSF的な要素として認めても、あくまでスケールは学園の範囲内であり、しかも学園生活パートとは分離されているため、やはり『レヴュースタァライト』はワイドスクリーンバロックである、と断言するには違和感がある。

そこで、ワイドスクリーンバロックが成立した経緯について考えてみたい。ワイドスクリーンバロックは1960年代のニュー・ウェーブ運動の影響を多分に受けて成立している、というよりニュー・ウェーブSFのサブジャンルとして捉えられる。ニュー・ウェーブはSF作家でもあるマイクル・ムアコックが編集長を勤めていた『ニュー・ワールズ』誌を中心として、SFに文学性や芸術性を取り入れようとする運動であった。このSF的なジャンクなガジェットやクリシェと思弁性との融合を目的とした文学的な実験の流れの中に、ワイドスクリーンバロックは位置しており、アルフレッド・ベスタ―やサミュエル・R・ディレイニーカート・ヴォネガットらはニュー・ウェーブ運動の代表的な作家であると同時にワイドスクリーンバロック的な作品も書いている。

このワイドスクリーンバロック≒ニュー・ウェーブの成立した過程を見ると、『レヴュースタァライト』にも似たような形式が認められるのではないだろうか。ニュー・ウェーブがSFに内包されていなかった文学性を取り入れたように、『レヴュースタァライト』は『ラブライブ』のような美少女アニメのフォーマットから取り除かれていた別の文脈を取り込んだのではないだろうか。

TV版の『レヴュースタァライト』において、最もインパクトがあり、わかりやすいSF的なガジェットは大場ななのループだろう。しかしこのループはあくまで美少女アニメ当番回の範疇として回収される。ここでのループのストーリー上の役割は、過去の「キラめき」へ執着する大場ななの掘り下げや強調がメインであり、もはやメタファー以上の役割はほとんどない。(もっとも、メタファーと現実に起こったことを区別しないことは極めてニュー・ウェーブSF的な技法ではあるが)

また舞台少女たちの人物造形も、かなり美少女アニメ的でわかりやすく類型的だ。これはつまらない人物設定だと批判しているのではなく、美少女アニメ的なフォーマットに意識的、自覚的であり従順だということの指摘だ。このような美少女アニメへの忠実さを見せる一方で、これから零れかねない要素が多数置かれている。逆に言えばあくまでギリギリ美少女アニメから逸脱しないバランスだ。武器を持って戦い、奇抜で派手なレヴューを繰り広げても、あくまで舞台少女は戦闘美少女ではなく、『ラブライブ』のようなアイドル的美少女の範疇のままである。

このような構成は『レヴュースタァライト』の監督である古川知宏の師匠筋にあたる幾原邦彦の『少女革命ウテナ』や、監督が影響を公言している庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』などにも見られる。『ウテナ』では古典的少女マンガのようなフォーマットにこれと対立しかねないアングラ演劇要素が取り入れられ、『エヴァ』ではロボットアニメのフォーマットで話を進めながら、最終的にアニメであることさえ破綻させようとするに至った。

これらに共通する、フォーマットとそれを破壊しかねない別の文脈の流入、劇的で派手な演出に対して、バロックが想起される。

バロックは秩序や比例においてある種の完成を見せたルネサンスへのアンチテーゼとして位置づけられ、歪なフォルムや直截的でわかりやすく情動的な効果を特徴としている。なるほど、確かにワイ(ル)ドスクリーンバロックバロック性は認められそうである。しかし、オーディションではないワイ(ル)ドスクリーンバロックバロック的なものであるなら、オーディションであったTV版のレヴューはどのような位置づけが出来るだろうか。

これを考えるに当って、劇場版のワイ(ル)ドスクリーンバロック開始直前のキリンを思い出したい。全身が野菜で構成されたキリンは恐らくアルチンボルドの絵画が元ネタになっていそうだ。そしてアルチンボルドバロックの前段階、マニエリスムの画家として位置づけられている。

 

マニエリスムルネサンスバロックの中間に位置する。もっともマニエリスムの画家は自分をマニエリストであるとは考えていなかった。マニエリスムとは、ルネサンスの比例と均衡において完成を見た美の形式、様式の模倣を徹底した結果、もはやルネサンス的な精神から離脱していった芸術様式を指す。マニエリストたちは、ミケランジェロを代表とする、もはや自然よりも自然らしく美しい偉大な先例を無視することができず、ゆえに先例を模倣、洗練させようとした。よってマニエリスムの様式は、作品のつぎはぎや、無数の引用、暗喩、寓意を特徴としている。

このような精神は16世紀に限らず、レディー・メイドのものから成り立っているすべての芸術についても言える。そして重要なのは、マニエリスムルネサンスの延長でありながら中世的伝統を呼び起こし、そしてアンチルネサンスではないことだ。

このような様式は『レヴュースタァライト』にも強く当てはまる。『レヴュースタァライト』は偉大な先例、『ウテナ』にしても『エヴァ』にしても『ラブライブ』にしても、その影響を疑う者はいないだろう。『レヴュースタァライト』の独自性を特徴付けているのは、これらの先行作品のつぎはぎの方法である。9人の美少女たちが歌や踊りで切磋琢磨する、というストーリーは、一話ごとに一人の舞台少女にフォーカスを当てて話を回す、いわゆる当番制も相まって、極めて男性若年層向けの美少女アニメとしてオーソドックスな構造である。一方で先に述べたように、その切磋琢磨が武器で戦い合うこと、キリンやオーディションといった超常現象や、無機物の運動を強調した演出など、美少女アニメから逸脱しかねない要素を内包している。しかし、決定的に、『レヴュースタァライト』は決してアンチ美少女アニメではない。

この精神が一番わかりやすいのは、再生産バンクだろう。落下する愛城華恋のバックにロシア構成主義を彷彿とさせるような「アタシ再生産」のタイポグラフィが表れ、髪飾りが溶解し、工業機械が駆動する。舞台衣装が縫製され、身に纏う一連のシーンは、美少女アニメのキャラクターから無機質なグラフィックや運動によって戦闘美少女として読み替えられかねない揺らぎ=変身が色濃く表れている。そして、ロシア構成主義や工業機械、マニエリスムに通底するのが、再生産である。

 

劇中劇である戯曲「スタァライト」は13世紀フランスの寓意物語である、『薔薇物語』がモチーフだと思われる。愛し合う二人の性格、内心が擬人化された、歓楽、純潔、恐れ、羞恥などが暮らしている愛の庭園を訪れた詩人が、薔薇に恋をする。番人たちが邪魔をするが、困難を乗り越え、詩人が薔薇に口づけすると、薔薇は閉じ込められてしまい、詩人は嘆くという物語だ。マニエリスムがこのような中世のアレゴリーの技法をルネサンスの延長線上で融和したように、『レヴュースタァライト』は古典である「スタァライト」を再演する。この読み替え=再生産=マニエリスムの結果、「スタァライト」の登場人物が増え、結末も変更するなど、古典に対する歪みが生じることとなった。さらに興味深いのは、この歪みが生じたのは、原本の翻訳、すなわち形式への徹底化によって引き起こされたことだ。『レヴュースタァライト』における「運命の舞台」が再生産されたのも、舞台の上にスタァは一人、を二人で一人のスタァとして読み替えたためだ。このようにTV版の「レヴュースタァライト」は極めてマニエリスム的な方法に意識的な作品であったことがわかる。そして、そのマニエリスム的な精神を最も強く体現しているのが、大場ななである。

 

大場ななは、初めてみんなで作り上げた舞台である第99回聖翔祭の「スタァライト」の体験を再び渇望し、何度も同じ一年を繰り返している、というキャラクターだ。このモチベーションはかなりマニエリスム的なもの、つまり『レヴュースタァライト』を体現していると言っても過言ではない。

マニエリスムの本質は、自然よりも美しいものを作り出した巨匠を模倣し、構成要素を取り出して合成することである。すなわちルネサンスの規範を完璧たらしめ、不朽のものとせしめる=過去の目で現在を見続けることだ。大場ななの「再演」は、もはや完成してしまった99回聖翔祭の「スタァライト」を読み替え、洗練させることを目的としている。大場ななは99回聖翔祭の「スタァライト」に執着はするが、この舞台を再現することではなく、この体験を再び渇望している。これは99回の舞台を再現するにはイレギュラーである神楽ひかりを、舞台を洗練させるために歓迎したことからも明らかだ。そしてこのマニエリスム的再生産から始まった「再演」はその方法の結果として、全く別の「スタァライト」へとたどり着くことになる。

大場ななは過去のキラめきの再生産だけではなく、新しい舞台を求めていた自分も受け入れ、第100回の聖翔祭に臨むこととなる。

ではビジュアル的なマニエリスムを体現していたキリンはどうだろうか。キリンの目的は舞台少女のキラめきを燃やした運命の舞台を見ることであり、マニエリスム的な精神は感じられない。しかし、キリンは舞台少女=芸術家の側ではなく、主催者であり観劇者である。マニエリスム的精神で作成された作品の鑑賞は、知性によってなされる。つまり散りばめられた引用やアレゴリーを読み解き巨匠からえた感動を再び呼び覚ますことだ。そしてこれは、恐らくキリンにも当てはまる。少なくとも、TV版から劇場版が構成される際、再び続きを望んだ観客である我々=キリンにとって違和感はないはずだ。

 

マニエリスムを体現していた大場ななのこの変化と、同じくマニエリスムを解する観客であるキリンの燃焼によって「皆殺しのレヴュー」から始まるワイ(ル)ドスクリーンバロックが行われる。そしてこれがもはやオーディションではないのも頷ける。オーディションとは舞台を再生産するための手法=マニエラである。TV版ではその手法のための手法が大きな位置を占めていたが、大場ななとキリンの変化によってマニエリスム的な精神が変化した以上『レヴュースタァライト』も変化せざるをえない。人工物の再生産の産物であるマニエリスムは変化し、自然が明晰な姿を横たえる世界、ワイ(ル)ドスクリーンバロックが始まる。

このワイ(ル)ドスクリーンバロックではオーディションどころか、前掛けを落とすルールさえも存在しない。様式の向こうで舞台少女たちは自然な舞台少女としての感情をぶつけ合う。

バロックは錯綜し難解となったアレゴリーから決別し、大衆的で自然発生的でセンチメンタルな表現を特徴としている。劇場版においても、抽象観念をイメージ化し、引用や寓意に満ちたワイ(ル)ドスクリーンバロックマニエリスム的なままだ。しかし、あらゆる表現がもはやマニエリスム的手法を逃れられない現在、重要なのは何を目的にどのように表現したか、である。バロックは近代を安定した形で自分たちのコントラクションを固める=新勢力が旧勢力を追い落とす点を特徴とする。ルネサンスの延長として意識していたマニエリストたちと異なり、バロックの画家たちは明確に自らがバロックの運動の中にいることを自覚していた。この精神の変化は、マニエラの再生産への執着から自然な感情を発露するようになった大場ななの変化と同様である。自然さ=舞台少女としての自分を取り戻し、新しい舞台へ立つための総括であるワイ(ル)ドスクリーンバロックは、依然マニエリスム的技法を駆使しながらも、その存在の在り方は極めてバロック的なものなのだ。

 

TV版においてオーディション=マニエラの再生産を目的としていたレヴューは、劇場版において自然=ワイルドな自分に立ち返り新しい舞台へ進むことを目的としている。ワイドスクリーンバロックを彷彿とさせる名前も、ワイドスクリーンバロックとしてカテゴライズされることが目的ではなく、ワイドスクリーンバロックの方法を取り入れたことを示しているものだと思われる。

バロックの精神が示しているものは、過去への羨望ではなく新しい未来の始まりであり、そして卒業した舞台少女は新しい舞台に立つのだ。

聖林檎楽園学園総解説

聖林檎楽園学園は竹本泉の作品に登場する学校。巨大で変な出来事がよく起きる。

解説と言っても竹本泉作品を説明するのはまあ、野暮なのでゆるめな感じで。

 

江崎まりあんシリーズ

『アップルパラダイス』

聖林檎楽園学園の初出。江崎まりあん、西園寺京子、朝ヶ丘絵理子らがメインキャラ。

基本的な流れは、ちょっとした変な出来事に遭遇、みんなで変な仮説を立て合う、変なオチ、といった感じ。ページ数が少ない分密度が高めで、オチのツイストが効いたものが多い。『うさぎパラダイス』でぎりぎり保っていた変さの枷が外れている。

以下『アップルパラダイス』収録。

「ふえるまど」

日常に退屈していたまりあんたち。校舎の一番端に窓の外から見たときだけ、窓の幅分の部屋が出来ているのを発見する。

このマンガがどういうものかよくわかる第一話。後に変な出来事が起きまくると思うと、ふつうで退屈と言っている状況はかなり変。

「たまごたまご」

学園の校庭には至るところに大穴が開いている。その中で謎の卵を発見する。

竹本泉お得意の地下ダンジョンもの、ではなく謎の卵がメイン。オチがかなり脱力系。

「みいらののろい」

学園の裏手には中王国時代のファラオの墓がいくつかある。王の玄室を発見した調査隊一行は副葬品を持ち帰るが、次々に入院。ミイラの呪いを疑うが……。

りあんの友人、西園寺京子のアレな倫理観が光る(?)ミイラがかわいい。

「せいどうのとうだい」

学園の校庭の一角には巨大な青銅の像が建っている。まりあんたちは灯台守をすることになるがハリケーンが上陸する。

アクションがあって楽しい。神話上の生き物がさらっと出で来るけど、今更驚きはしない。

「いずみわく」

校舎の隅でボーリング調査を行ったところ、温泉が湧く。しかし温泉には謎の効用が。

カラーで水着回。オチ以外の変さは薄めだが、古生物がかわいい。

「ころもがえ」

ロビーに飾られた少女の肖像画。五年に一度、制服を変える衣替えで会えると言われるが。

コスプレもの。せ~ふくものなどで登場した制服も。少女に対して15歳~18歳じゃないだろ、とツッコむ先輩も何歳なのだろうか。制服を描くのが面倒で変えたいがためにこんな話を描くなんて、極めてロジカルである。

「かねのおと」

17の時計塔のうち一つだけ鐘の音がずれている。まりあんたちは直そうとするがなぜかずれたままに。

わりとベタなネタではある。一度気になるとずっと違和感が消えないのはけっこうあるある。

「おおそうじ」

年に一度の大掃除。掃除機を使ったときに出てきた謎の男とは。

踊る貧乏神がファンシー。本の山の近くで掃除すると、貧乏神がいなくても掃除が終わらなくなる。

「すいせいくる」

彗星を発見したエミリオ。しかし彗星は地球にぶつかる軌道に。

カラーで服がボロボロになるお色気。竹本泉のドライなペーソスが冴える。彗星とボロボロの服にあまり関係はないけど、やっぱり終末感は重要。

「あっぷるぱらだいす」

創立の歴史が謎の聖林檎楽園学園。そんな中、一階の階段にも手すりがあることから地下を発見する。

ダンジョン探検。年代が滅茶苦茶な生徒手帳やフィルムに笑った。なんでタイトル回収しているのか、思いつかなかったにしても謎。

「ながれもの」

学校の裏手の海に幽霊船がやってくる。

カラー。というわけで水着回。ちょっと呪われちゃってね。というとぼけたテンションがかなり竹本泉的。

「かおのいし」

流星群のあった翌日、謎の石像を発見する。

謎の石像に対する議論が楽しい。が、冒頭もオチもその議論をぶっちぎる。ロジックとオフビートのバランスがちょうどいい、のか?

「みずのそこ」

コインを投げると幸運が訪れると言われる噴水。しかし、謎の事故が多発する。

京子のアレな倫理観が再び。舌を出して暑がるまりあんがかわいい。

「ねこじだい」

平和な生活の裏には猫の活躍が。

りあんのペットの猫がメイン。けっこうホラーかも。

「あめどおり」

なぜかまりあんだけが傘を差して登校してくる。

通りを通る通り雨。電車内で傘を使った形跡があるのが自分だけとか、わりとあるかも。

「そらにたいようが」

暑さを感じていると、空に二つの太陽が。

真冬でカラーじゃないけど水着回。議論を重ねたのちの脱力系なオチにニッコリ。

「ねむいごご」

昼寝を繰り返す京子。京子にエミリオがキスすると今度はエミリオが眠り続けることに。

キスしまくり。時計棟の一つに眠り姫の糸車があるという発想が変。

「さむいあさ」

凍結した道路を滑りながら登校すると、校舎が氷漬けに。

「かねのおと」の続編。好き勝手描いているわりに、一度描いた設定はなかったことにせず真摯な姿勢。

「とおりみち」

レクリエーション週間は学校が休校に。何か理由があるのではと疑うが。

現実でもありそうな気がする変さ。害がなくて小さくても、うじゃうじゃ密集していると気持ち悪いを通り越して怖い。

「は」

歯痛に悩まされ、大食いの京子がお菓子を食べない。周囲は歯医者を勧める。

オチ以外は変でもないか。食べても太らない人はうらやましい。

「ながれるみず」

学園の廊下に川が流れる。その源流とは。

変な出来事に順応して楽しもうとする生徒たちも変。

「なみだめ」

山から強い風が吹きおろし、目にホコリが入って真っ赤に。

目が痛い→赤い目→うさぎという論理的な展開。

「ものかき」

変な小説を描くまりあん。しかし現実の方が変だった。

変な小説を読みたいです。実際、このマンガの普通の基準がわからなくなる。

「なつのひのおもいで」

夏休みを満喫するまりあんたち。夏はあっという間に過ぎ去る。

時間そのものが短くなったら、その長さをどのように観測すればいいのだろうか。

「やまあるき」

少しずつ山が移動している形跡を発見する。

『ルプ☆さらだ』のやまあるきの回よりもストレートなアイディア。どっちもどっちで変ではある。

「たいふういっか」

登校するが台風で休校になる。その上、校舎に浸水する。

あとがきで語る通り、最後の大ゴマのビジュアルがメイン。スライムみたい。

「こうしゃのつながり」

校舎の窓から財布を落としたまりあん。しかし繋がっているはずの場所に行けず拾うことができない。

校舎の繋がりを考察するパートが面白い。空間移動がありがちって、感覚が麻痺してくる。

「あふれでるみりょく」

エミリオがプレゼントしたイヤリングを付けた京子が色っぽくなる。

くれた相手に惚れるイヤリングは本命ではない人用、という逆説が竹本泉らしい。

「ふゆばのなつ」

氷からレーザー。

水着回で雪だるま回。かなり変なアイディア。

「つきのよる」

月の陰に星が見える。

冬の空で蜃気楼?蜃気楼の月と作中で他に挙げられた仮説のどれが一番変なのか判別できない。

「ひとりよぶん」

クラスの人数と席の数が一致しない。

ロジカルで脱力系のオチとファンタジーなオチの、二重のオチ。侘しさを感じさせる絵理子の表情が絶妙。

「いどのそこ」

陥没した地面の中に、突然井戸が表れる。

掘り下げたのではなく、掘り上げたという解決がエレガント。他はいろいろ謎。

「こえ」

猫と声が分離する。

相変わらず変なアイディアだが、これ以上アイディア発展をさせないのも竹本泉らしい。

「あめのひは」

梅雨が長引き、洗濯物が乾かない。

長引く梅雨より、じめじめしてイライラするのがメイン。

「うみのそこ」

海岸に打ち上げられた漂着物。一方、海底にハイウェイを発見する。

海底のハイウェイだけでもすごいインパクトなのに、そこを沈没船が通るからもっとすごい。

「ねっぱなひび」

異常な熱波に襲われ、連日真夏日に。

カラーで水着。38度を超える程度の真夏日が続く程度の異常気象は別に変でもないか、とおもってしまう。

「ねこのなは」

猫の分裂と名前の変更。

珍しく一切超常現象が起こっていない。ある意味そっちの方が変かも。

「まるいわ」

ミステリーサークルを発見する。

大蛇かーっ

「ゆきのだるま」

大量の雪だるまが出現する。

雪だるま回。豪雪も自然現象だし、雪だるまも自然現象。

「ふゆのくらし」

ストーブのために石炭を掘り起こす。

逆説的なオチが素晴らしい。竹本泉のキャラは薄着より厚着していた方がかわいいと思う。

「はるのこえ」

インフルエンザが流行する。

変じゃない話。まあ疫病が蔓延しても日常は日常。

 

以下、『アップルパラダイス』以外の江崎まりあんが登場する作品。

「あっちのやね こっちのやね」『よみきり♡もの』二巻収録

時計塔に上ると、必ず向こうの棟から振り返される。

『よみきり♡もの』一巻収録の「あっちの屋根 こっちの屋根」を踏まえた作品。ちょっとした変なきっかけ、変な仮説を立て合う、変なオチ、という『アップルパラダイス』のフォーマットも踏襲。『アップルパラダイス』のというより竹本泉作品のと言った方が正確だが。

「あかいみち」『よみきりものの… ヒトライフ』収録

梅雨と同時に熱気も長引く。

静電体質と赤道祭り。京子のイライラがメインでと目に見えないはずのラインが停滞していたというオチは『アップルパラダイス』の「あめのひは」のセルフリメイクといった趣。

まえがき『よみきりものの… 北国楽園』

まえがきにまりあん、京子、絵理子、エミリオが登場。この巻に聖林檎楽園学園ものが収録されているわけではないが、一応。

「せいふくもの」『せ~ふくもの』収録

転校先で知り合った女子の野望とは。

竹本泉のパワフル系女子の極北。小学生の西園寺京子らしきキャラの写真と寄せ書きが登場。

「うじゃうじゃパラダイス」

『うさぎパラダイス』と合同のイメージアルバム。歌とインスト曲。聖林檎楽園学園校歌の雰囲気がいい感じ。

 

・明治梅シリーズ

『アップルパラダイス』より後の聖林檎楽園学園が舞台。明治梅、広岡修造、恵理子らがメインキャラ。『よみきり♡もの』特有のゆったりと間を取ったテンポが特徴。ビジュアル的なイメージが先行したような素直なネタやオチが多い反面、その分『アップルパラダイス』的な妙にロジカルなユーモアが控えめ。

「りんごのひみつ」『よみきり♡もの』6巻収録

学園の至るところにりんごが置かれている。

数年前のフィルムとして、京子やまりあん、エミリオ、絵理子が登場。学園中に置かれたりんごのイメージが抒情的(?)

「たつはしら」『よみきり♡もの』8巻収録

学園に用途不明の古びた柱が多数。

『アップルパラダイス』収録の「すいせいくる」の続編?ある意味そのまんまなオチ。

「ゆきだるまがやってきた」『よみきり♡もの』10巻収録

真夏の道端に雪だるまを発見する。

雪だるまで水着回。雪だるまが動く普通(?)の話。

「あおいめ」『よみきりものの… 魂のにぎわい』収録

青い目の石像を発見。石像にお祈りすると目の色が変化してしまう。

ブックスパラダイスの森永う子らしき人が登場。明治梅シリーズはオチのツイストが少なめで変は変でも、抑制気味。

 

有葉・テイストタワー・姫シリーズ

有葉・T・姫、徳幕かおる、小々雨椿らがメインキャラ。『よみきり♡もの』、『よみきりものの…』のころは一つの大ネタに対して少し脱線しつつゆるくまとまるような構成が多かったが、『シンリャクモノデ』ごろになると一層、脱線や小ネタへの注視が強くなる。アイディアストーリーというよりキャラコメディ的な要素の方が強い。

「シンリャクソノ17」『シンリャクモノデ』3巻収録

謎の胸像を集めた姫。そのときなぜか雪が降るように。

聖林檎楽園学園もの特有の変な仮説のディスカッションが薄く、明治梅シリーズ以上にスラップスティック色が強い。姫の性格のせい?

「人魚Days」

スマートフォン向けのゲーム。なぜか尾ヒレがついてしまう。

カラーのゲームなので水着。BGMがないのは残念だが、いつものノリのマンガを読んでいるように楽しめる。まえがき、メイキング、あとがきも付いていてお得。

 

・森永う子シリーズ(ブックスパラダイスシリーズ)

聖林檎楽園学園の第二図書館が舞台。森永う子、遠東、恵里子ら図書愛好倶楽部のメンバーがメインキャラ。明治梅シリーズ以上に変な出来事に順応的。迷宮的な図書館のイメージが魅力的。

「ブックスパラダイスVol.1」『よみきり♡もの』3巻収録

図書館の奥に霧を見つける。そのころ謎の人物が本を借り出しに来る。

オチは特にないが、展開が変。

「ブックスパラダイスVol.2」『よみきり♡もの』3巻収録

 本の中に鍵を発見。図書館中の模様と鍵を照らし合わせる。

本がたくさんあるとうれしい。ナンセンスというか、にへっと言った感じのオチ。

「ブックスパラダイスVol.3」『よみきり♡もの』5巻収録

なぜか本が散らばり続ける。

本の分類は重要。ブックスパラダイスはアップルパラダイス的なノリは控えめ。変ではある。

「ブックスパラダイスVol.4」『よみきり♡もの』9巻収録

本を濡らしてしまい、アイロンをかけるう子。一方謎の訪問者が本の整理を迫る。

珍しくオチがある。本にアイロンって効果あるのだろうか。

「ブックスパラダイスVol.5」『よみきりものの… 魂のにぎわい』収録

沙漠をさまよい本を回収する。

水着。沙漠の向こうに学校が見えるシーンがシュール。日向に本を放置してはいけない。

 

・山嶺茜子シリーズ

『あかねこの悪魔』

第二図書館が舞台。山嶺茜子、辻島透、島根小月らがメインキャラ。本の中に入り、本のつじつまを食べてしまう紙魚を捕らえる。ブックスパラダイスのキャラも時々登場する。本の世界に入り込むこと以外は、ほとんど変な出来事が起きない。またどたばたしたエネルギッシュな部分も本の世界で集約されているので、日常パートは落ち着いた緩い会話劇がメイン。

以下『あかねこの悪魔』収録

「第1章」

変な本が多い第二図書館に入り浸る山嶺、辻島。謎の赤猫に触れた辻島が豹変し、山嶺、辻島は本の世界に入り込む。

再読したり人と話すと、本の内容が食い違うことはよくあるけど、それは本自体の内容が書き換わっているからだ、というアイディアが楽しい。

「第2章」

「第1章」の続き。

つじつまの十分整った本の世界は存在し、紙魚につじつまを食べられすぎると世界が終わってしまう、というのはけっこう怖い。

「第3章」

つじつまの合わない本の世界は書き割り。

アップルパラダイスの夜の空が書き割りであることを考えるとホラー。

「第4章」

ラテンのアーサー王とショタのアーサー王

古典の内容がなかなか変わらない=紙魚に食べられない理由付けが鮮やか。

「第5章」

バニーガールのコスプレ。

衣装が違うとテンションが変わるのは『しましま曜日』的かも。

「第6章」

第一図書館のつじつまの悪魔。

試験前に本を読むのは危険。

「第7章」

第一図書館のつじつまの悪魔と出会う。

アレな抄訳は紙魚のせい。自分から本の内容を変えようとする茜子がアクティブ。

「第8章」

優等生の茜子。第一図書館のつじつまの悪魔でも取り付ける辻島。

水着。メイド服もサービス。

「第9章」

また海に水着。

サーフィンするつじつまがシュール。

「第10章」

犬がかわいい。

ブコメ要素。犬がかわいい。

「第11章」

第一図書館のつじつまと再会。

ダイエットは大変。バローズパロディのミステリは実際にありそう。

「第12章」

 第一図書館のつじつまである島根小月と知り合う。ローマ街道とローマ水道

本の中に入っている間は、居るページに記述される。変。

「第13章」

 うさぎなんぎ。

『ねこめ~わく』のセルフパロディ回。山嶺は厚着でもこもこしてるほうが可愛いな。

「第14章」

少年探偵ポポタ。アクティブに干渉して本を書き割り化から救う。

エドワード・ファーロングに辛辣。ショタ萌え回?

「第15章」

第二図書館閉館。ブックスパラダイスのキャラたちが学園を卒業。小月が図書愛好倶楽部に入会。

学園にとどまる恵里子が切ない。西部劇のコスプレの茜子がかわいい。

「第16章」

図書愛好俱楽部の新体制。

江里子登場。挿絵と本文は不可分。イオニア式どドーリア式の違いは自分もさっぱりらからない。

「第17章」

三人で紙魚取り。

水着でサービス。ラブコメっぽい。

「第18章」

賢者探偵キケリナ様。

百合でキス。

「第19章」

図書館都市。本の中の本も読める。

読めなくても面白そうな本は魅了的。

「第20章」

 現実の肉体の状態も本の中の自分に影響を与える。水着でラブコメ

隠し本棚はロマン。霧のカーニバルがシュールで怖い。

「第21章」

小月と辻島で本の中に。

コスプレした辻島がかわいい。

「第22章」

本に合ったコスプレしかできないことに気が付く。

メイド萌え。

「第23章」

賢者探偵キケリナ様(ロリ)。キスはサービス。

ブコメ感が強い。三角関係?

「第24章」

キスしたことを気にする。紙魚捕りの適正の条件。より上の次元からこの世界に紙魚を捕りにくる。

この世界が本の中の世界であることが明かされるが、わりとさらっと流すのが竹本泉らしい。『あかねこの悪魔』に入ってくるので、紙魚を捕る上の次元の人はつじつまのコスプレ。

「第25章」

この世界が本の世界であることを受け入れる。

この世界が本の世界である、という大ネタを軸にゆるゆる会話する構成が『よみきり♡もの』っぽい。

「第26章」

読んだイメージと本の世界でキャラが違う。兄弟の話。

実写化してキャラのイメージが違うのはけっこうある。

「第27章」

学園中に謎の石像。

珍しく学園の変なものが話題に。(特にオチはないが)

「第28章」

本の中での言動はTPO。

高笑いは変じゃないらしい。

「第29章」

石像は変さの象徴。

事故でキスはラブコメの基本。

「第30章」

図書館にねずみが。

いろいろラブラブ。

「第31章」

読書と水泳。

カラーなので水着。海岸で読書してみたい。

「第32章」

卒業後の進路。第5図書館を発見。

動くミイラ大好き。本に入らなくても聖林檎楽園学園のミイラは動くが。

「第33章」

発見した第5・6図書館の探索。

面白そうな本ばっかり、の場面で変なタイトルが並んで笑った。

「第34章」

第6図書館のつじつま、八王子独楽子登場。

百合サービス。犬の紙魚はかわいい。猫だと『かわいいや』のぬいぐるみを思い出してしまう。

「第35章」

茜子たちの受験。

ネコミミでキス。すごくオタクっぽい。大学の図書館には18禁コーナーが欲しい。

「最終章」

大学合格。大学でも紙魚捕り。

つじつまで遊ぶ江里子や、大学生の森永う子との会話など。あんまりしんみりせず、ゆるく完結。

虹ノ咲だいあの破綻と閉塞

結論から言って、キラッとプリ☆チャンは、虹ノ咲だいあの物語であったと断言しても過言ではない。特に二期では、服飾や歌唱の才能を持ちながら極度に内気な少女、虹ノ咲だいあとバーチャルプリチャンアイドルだいあの正体と変化が主軸となっていた。しかし、この「キラッとプリ☆チャン」という作品全体の中で、虹ノ咲だいあはどのような役割を果たしていたのだろうか。

 

キラッとプリ☆チャン」には大まかなストーリーのフォーマットが存在する。主人公たちが身の回りのキラッとしたものを発見、配信し、その動画にいいねが集まることでアイドルとしてライブをする。また1クールの終わりごとに大会があり、そこでライブを披露し、多くのいいねを集めて優勝すると、特別なコーデが貰えるというものだ。しかし、このフォーマットには問題があった。率直に言ってしまえば破綻している。

一つは、ライブの位置づけだ。ここでライブは、いいねを集めたご褒美として配信パートとは独立して存在している。キャッチコピーでもある、「やってみなくちゃわからない、わからなかったらやってみよう」と視聴者から承認を得なければライブを行えない設定は相性が悪く、配信でいいねを貰えたことと、ライブをすることにストーリー的繋がりをもたせるのが困難であった。

次に、大会の存在だ。大会では、視聴者に加えてデザイナーズと呼ばれるある種の権威による承認を競うものだ。しかし、配信後のライブに登場人物の積極的なモチベーションが存在しないように、大会のライブへのモチベーションも存在しない。主人公たちのチームであるミラクルキラッツにとって、ライブや特別なコーデもせいぜい自分の周囲のキラッとしたものの中の一つであり、大会に参加する積極的な意味を持っていない。その結果、ライバルチームであるメルティックスターのライブや大会に対する高いモチベーションは三期に至るまで空転し続け、キラッとしたものを並列的に扱う主人公は、そうなんだ桃山と呼ばれるだけでなく、サイコパスやアンドロイドと揶揄された。キラッツが目標や目的を持つことはないにも関わらず大会に勝利し続けることで、ますます大会の存在意義が消えることになった。

しかし、虹ノ咲だいあによってその構造は反転する。虹ノ咲だいあはプリチャンの配信ではなく、ご褒美であるはずのライブとコーデを目的として活動する。ライブを重視するのはある意味メルティックスター的だが、虹ノ咲だいあの場合、ライブのために配信をすることにほとんど興味を示していない。虹ノ咲だいあにとってライブはプリチャン、プリチャンアイドルへの憧れの象徴そのものであり、コーデは自分を表現し、他人と繋がるための手段だった。その結果、漂泊していたライブとコーデの意義がプリチャンアイドルではない一般人の目線で価値あるものとして引き直されることになった。逆にライブ自体の価値がフィーチャーされることで、第89話「聖夜はみんなで!ジュエルかがやくクリスマス!だもん!」において、虹ノ咲だいあのカミングアウト後、ライブが可能になるほどのいいねが集まるシーンは、承認によるご褒美としてのライブの祝祭性を強調することにも繋がった。

そして大会であるが、ここに「キラッとプリ☆チャン」二期の最も大胆でエレガントな転倒がある。特別なコーデを得るために参加者が競い合い、その結果キラッツが勝利してきた大会を、特別なコーデを与えるために参加者を競い合わせた八百長であると読み直したことだ。

虹ノ咲だいあが大会を開催するまでに至る経緯を描いた第76話「キラにちは!だいあとだいあが出会った日、だもん!」はもはや、犯人の独白かヴィラン誕生秘話といった趣だ。コーデを与えれば友達になれると考えた内気な少女が、桃山みらいたちプリチャンアイドルに憧れ、友達をオーディションするために大会を開催する。ライブ、大会、コーデに積極的な価値を与えた見事な設定だ。そして配信を通してアイドルたちと交流する中で、すでに友達となっていたことに気が付く。

一期では大会自体に価値を与えた結果、存在意義があやふやになっていた。対して、二期では手段として大会を私的に利用しつつも、大会を通じて友情を育むことによって大会自体にも価値があったことを認める構造となっている。

このように虹ノ咲だいあはプリチャン的な物語を反転させ、支配する存在であったが、同時に視聴者のアバターでもあった。

虹ノ咲だいあは視聴者である。虹ノ咲だいあは桃山みらいを見ることをきっかけにプリチャンに興味を持つ。妙にドライで淡泊でよくわからない人物であった桃山みらいに憧れを見出した虹ノ咲だいあの視点を通して、テレビの前の視聴者も桃山みらいの輝きを発見する。そしてそのプロセスは、「だいあ」の動向を主軸として「キラッとプリ☆チャン」を語りなおした二期そのものの構図だ。根暗でコミュ障なキモいオタクが虹ノ咲だいあに感情移入しやすいというだけではない。「キラッとプリ☆チャン」はインターネットの配信をテーマとしながらも、場所や交流が主人公たちの近所から離れることはなかった。これは単に地理的な意味ではなく、変化や発見を与える未知の場所が存在しないという意味だ。桃山みらいたちは様々な場所に出かけ、様々な人々と出会いながらも変わることがなく、刹那的にキラッとしたものを見つけ続ける。この「キラッとプリ☆チャン」の閉塞感はコーデやプリチャンなど輝かしいものを見つけながらも変わることができず、薄暗い部屋の中八画面で桃山みらいを見ていた虹ノ咲だいあの閉塞感と同じ種類のものだ。配信の積み重ねの向こうには何もなく、ライブにも大会にもコーデにもたいした価値はない。「キラッとプリ☆チャン」が「キラッとプリ☆チャン」である以上、逃れられない構造だった。しかし、虹ノ咲だいあはその構造をハックした。虹ノ咲だいあは配信の、ライブの、コーデの、大会の、桃山みらいの、「キラッとプリ☆チャン」の価値を発見した。そしてその瞳を通してまた視聴者も、「キラッとプリ☆チャン」の価値を発見したのだ。

キラッとプリ☆チャン」はとりてて名作とも傑作とも言い難い。配信、ライブ、大会の齟齬は最後まで依然として存在し続け、三期では舞台が遊園地に限定されることで更に齟齬は増大した。設定や描写の矛盾や不足も多く、ストーリー投げやりだ。

しかし、虹ノ咲だいあが桃山みらいを見つめたように自分は虹ノ咲だいあを見た。虹ノ咲だいあは破綻と閉塞の中で抗い、価値を与え、瞳をさらけ出した。少なくとも自分は虹ノ咲だいあの存在していた「キラッとプリ☆チャン」を凡作と切り捨てることはできない。

 

テキストからの離脱 ラヴクラフト「ダゴン」

ラヴクラフトダゴンを久しぶりに読んだのでちょっと雑感。

 

ダゴンはかなりダイレクトに、「ラヴクラフト」的な小説だ。

つまり、①理性に基づく科学的明晰性が、②悪夢と幻覚に敗北する物語である。

 

物語はとある男の体験したことを綴った手記の体裁で始まる。漂流していたその男が謎のぬかるみに座礁し、存在しないはずの人工物や巨人を目撃するという話だ。

 

まず①について。語り手の言動は理知的なものとして描写されている。例えば、漂流中に星の位置で緯度経度を推測しようとする(失敗するが)、突如現れたぬかるみに対しては火山の隆起によるのではないか、と仮説を立て、積極的に探索を行う、ぬかるみや発見したモノリスもスケッチ的につぶさに描写している。加えて何度も自分の狂気や幻覚を疑う程度の理性が強調されている。

また、固有名詞の多用も文章の明晰性、というよりも具体性に寄与している。失楽園やドレ、ポー、プルワーなど文学、芸術方面の言及や、ポリュフェマスや古代フェリシテ人のダゴンなど民俗学的方面、ピルトダウン人やネアンデルタール人など考古学的な方面でのアプローチが、語りにはっきりした輪郭を与えている。

 

一方で②について。「ダゴン」は上記のような明晰性を疑わせる構造になっている。

第一に語り手は手記の記述時にはモルヒネ中毒であり、肉体的、精神的に疲労しきっていると明かされ、この手記の信憑性にゆらぎがある状態で、男の語る体験を読むことになる。また、奇妙な出来事に遭遇する決定的瞬間、ぬかるみの隆起は男の睡眠中に起こり、モノリス、巨人の発見のときは悪夢にうなされた後、日中では躊躇していた探索を行ったことで起きている。意図的に夢と現実の中間で起きているわけだ。逆に日常への帰還も狂気の後に、アメリカの病院での「目覚める」ことで果たされている。

 

このような明晰性と曖昧性が互いに侵食し合い、揺さぶり合いながら進行していくわけだ。

余談ですけど、ラヴクラフトの時代では考古学的知識として引き合いにだされていたピルトダウン人は現在では捏造であることが知られている。今の視点から見ると、考古学的学識にかなりの影響を与えながら虚構の存在であったピルトダウン人は、明晰性=現実と曖昧性=虚構が相互に侵犯する、かなりラヴクラフト的な存在じゃなかろうか。

 

そしてラスト。自分の体験が現実と虚構の間で宙づりになっていた語り手は、ついに決定的「何か」を知覚して絶叫する。ここのポイントは、語り手の手記、回想として出発していたこの「ダゴン」というテキストがいつの間にか、ほとんど語り手の独白、実況になっていることだ。決定的「何か」の知覚によって語り手の理性に裏付けられた現実=前提が崩壊するのと同時に、このテキストは語り手の手記である、という読者にとっての現実=前提も崩壊するわけだ。素晴らしい。

 

というわけで、思いのほかフィジカルな恐怖に訴えるラヴクラフト作品が多い中、「ラヴクラフト」的なものを読みたい人に勧めるのに最適ではないだろうか。短くて読むの楽だし。

でも一番好きなのは宇宙からの色です。